パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

年の瀬に

2008-12-31 21:42:47 | Weblog
 『大阪府警潜入捜査官』の翌日、『阿修羅の瞳』なんかを見てしまった。

 結論的に言うと、これも予想外に面白かった。とはいえ、最後まで見ることはしなかった。何しろ、誰が主人公なんだかよくわからず、然り伺候して、最後までつきあう必然性を感じなかったのだ。

 見ながら、ぼんやり考えたのは、意外なことに黒澤明だった。

 もし仮に、黒澤が今映画界に入って来たとしたら、こんな映画を撮るのかなあと。

 要するに、黒澤映画のような、紙芝居的「活人映画」で、精神的深みのようなものはない。

 黒澤は神様になっちゃってるから、当然精神性も深いものがあるだろうと思われがちだが、全然そうじゃない(と思う)。

 『野良犬』の最後、お嬢様のピアノの音色をバックに脱獄犯と刑事が格闘する有名なシーンなんか、「精神性」という意味で言うと噴飯ものなんだけど、一応、精神性に溢れた素晴らしい名場面ということになっている。(私も、見ると「いいなあ」とか思ってしまうのだけれど。)

 紅白で森山直太朗が、「生きるのがそんなに辛いのなら」とかいう歌を歌うそうで、今頃、歌っているのかもしれないが、なんでそこまで自分を追い込むのか。

 「生きさせろ」というスローガンもそうだ。

 そもそも、「生きる権利」なんて、憲法に書いてあるのかないのか知らないが、「権利」というのは、そんなわけのわからないものじゃない。もっともっと具体的なもので、それが侵されたら、決死の反撃をしてでも守ろうとするものだ。


 「生きる権利」を守るために武装闘争をはじめることができるか? できるわけがないし、実際、そんなことは起きなかったわけだ。

 市民主義者は、「日本人は大人しすぎる」とか言うけれど、日本人が立ち上がらないのは、そのための基礎となるものの設定そのものが、間違っているからだということに気づかない。

 2chに、「格差社会に代る言葉をください」というスレがあり、そこに、「格差社会」は「縦社会」と呼ぶのが正しいだろうと、次のような書き込みをした。

《横社会における「階級」が、縦社会では「格差」にあたる。

「横社会」では、その階級に属しているものは基本的に他の階級に移ることは
できないし、しない。

「縦社会」では、貧乏人の子供でも勉強ができれば東大に入ることができ、
その結果高級官僚にだってなることができる。つまり、当人の努力次第で「出世」
できるが、その代わり失敗したやつは敗北感に苛まれる。「格差」という
言葉はこの敗北感から出て来たと思われる。》

 しかし、2chでは(いや2chに限らず)みんな感情的になって、単なる不況に伴なう生産調整の
ための人員整理に対して、重役以上は給与をゼロにして雇用を維持せよとか、農村では人手不足な
んだから失業した元派遣は農村へ行けとか、むちゃくちゃである。

 ホリエモンが、どこかのTV番組(『太田総理』かな)で、「ベーシックインカム」の導入を主張したらしいが、来年は、ベーシックインカム論議開始元年としたいものだ。

 年頭に当たってとか、一年の締めくくりとしてとか、私はまったくナンセンスであると思っているのだけれど、まあ、決り文句と言うことで、そろそろカウントダウンだ!