パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ホムンクルスとゾンビ

2005-12-21 13:32:09 | Weblog
 今、「映画の研究」というタイトルで特集原稿を書いているわけですが、これが「視覚の研究」にスライドしてしまって、大変。何しろ、「視覚」は謎だらけの人間の「知覚」のうちでも謎中の謎だし、おまけに「視覚」と「意識」はほとんど同一視されている。人間の脳の中に小人(ホムンクルス)が住んでいて、これが網膜に映っている像を見ているのだとするホムンクルス仮説は、「視覚」と「意識」を同一視するところからくる。もちろん、視覚を持たない盲人が「意識」をもないわけはないので、「視覚」と「意識」を同一視することは間違いだけれど、「視覚」から「意識」が生じるように「見える」ことは否定できない。(ここらへんが、「微妙」なんだよな~)
 この「ホムンクルス仮説」と対極の位置にあるのが「ゾンビ仮説」だ。ゾンビとは、もちろん、あの「生きた死人」のゾンビだ。で、ゾンビ仮説とは、人間の「意識」は、知覚についてまわる「影」のようなもので、因果関係を持たないから考えるだけ無駄、というもの。これは、論理学的には大変スマートで、論破することは難しいが、悪魔的なアイデア(だから、否定することが難しいのだが)なことはたしかだ。
 それで、前に書いたインド人の脳神経学者のラマチャンドランは、「意識」の存在理由を、「悟り」をもたらすものとしている。
 そういえば、『西遊記』の孫悟空が最後に対決する化け物は、自分の「コピー」で、自分とまったく区別がつかない。これは、哲学的には「他我問題」といって、「他人が意識を持つ存在であることを私は決してわかることができない」というもの。たとえば、あなたが、薔薇を指して「赤い」と言った時、その「赤」がどんな赤なのか、私にはわからない。これはクオリア(物事の性質を意味するラテン語)問題とも言うのだけど、この難題の解決を要請されたお釈迦様は、「どっちも本物」と答える。要するに「わからない」ことが「わかった」というだけなのだけれど、これが「悟り」なのだと。
 ところで、お釈迦様がなんで「わからない」と答えたかというと、お釈迦様は人間の中で再考の知性を持つものであって、神様ではないからだ。世界を創造したユダヤ、キリスト、イスラムの万能の神様はそうは言わない。じゃあ、どう言うかというと、たとえばπという数字がある。これは無理数なので、3,1416……と永遠に続くのだけれど、今は数兆桁までわかっているらしい。たとえば、1兆200億桁の数字は「8」てなぐあい。(もちろん、本当のところは知らないが、どこかのデータファイルにアクセスすればわかるだろう)では、その先、数百兆の数百兆倍の桁のπの数字はいかに?と尋ねた(考えた)らどうなるか。ゴッドだったら、「わかるよ」(というか、「今言うことはできないが、決まっている」というのが正しい)と答えるが、お釈迦様は「わからない」と答えるだろう。お釈迦様は人間だから、わからないものを「わかる」とは言えない。
 これは、前に書いた「実無限」と「観念無限」が対立する、「無限問題」そのものなのだけれど、実は、現代の数学基礎論では、πの数字はすべて、無限の彼方に至るまで「決まっている」と主張する「実無限」を採る。要するに「神様」の存在を認めるのだけれど、ぶっちゃけて言うと、実無限の立場で考えると、非常に不可思議な結果が得られるけれど、ともかくブレイクスルーする。無限は観念のうちにしか存在しないと考えると、アキレスは亀を追い越せない、というゼのンのパラドックスすらブレイクスルーできない。じゃあ、観念無限はとっくに破棄されたかというと全然そうではなくて、今でも実無限派と打々発止でやりあっているらしい。てことは、そのメリットも充分あるわけだ。

 話がすっかり逸れたけれど、いろいろ本を読んだ結果、視覚の本質とは、「動きの中から動かないものを抽出すること」ということになると思う。たとえば、我々は、机をいろいろな方角から見ても、机であることがわかる。前から見た机、後ろから見た机、それぞれ網膜に映った映像は違うけれど、いずれも「机」であることがわかる。これを「視覚の恒常性」というのだけれど、
とりあえず、これが「視覚の本質」ではないかな、と。