パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

おじゃま虫

2005-12-12 13:57:11 | Weblog
 昨日からの展示がちょっと大掛かりで、その準備に大勢の人がやってきて、私はおじゃま虫のようなので東北沢の現代ハイツというカフェギャラリーにM里氏なる人の個展を見に行った。
 うーん、あのギャラリーの現状では、展示を成功させるのはかなり難しいのでは、と思うくらい、スペースがちゃちというか、雑というか……汚いというか。(肝心の「作品」もいまいち。「他人に見せる」という意識がありすぎたのか、「焼き」がちと固い……と思った)
 別に、スペースの作りが雑でちゃちでも構わない。そもそも、日本建築では、柱や梁はできるだけ細く、天井も低い、一見、貧乏たらしい作りのほうが「粋」なんだそうだ。いわゆる、「苫屋」ってやつだ。太い柱、太い梁、高い天井は、日本建築本来の立場からすると、「不粋」なんだと。じゃあ、雑でちゃちならそれでいいかというと、そうじゃない。「美意識」がそんなに単純なわけはない。で、「現代ハイツ」はというと、ただ単に雑で汚いだけという……。

 この現代ハイツ、カフェでもあって、ギャラリーに行くのに、カフェのスペースを突っ切らねばならない。でも、別に必ず何か注文しなければならないわけではなく、見終わったらまた、カフェを横切って帰ってくればいいので、その積もりで行ったのだが、いざとなると、何も注文せずにそ知らぬ顔を通すのが恥ずかしくなり、コーヒーを注文した。税込み525円だった。高えー! 旨かったけどね。

 今、映画のことを書いているのだが、「脳内現象」にずずずーっと興味が移り(いや、映画と直結する問題なので、決して脇道にそれたわけではないのだが)、ラマチャンドランとうい印度人科学者の書いた『脳の中の幽霊』という本を買った。読むのは、これからなのだが、「脳の中の幽霊」というのは、ホムンクルス仮説という名前で知られる「認識理論」だと思う。「ホムンクルス」というのは、中世ヨーロッパの錬金術師、パラケルススが作ったと言われる「小人」のことで、人間の「認識」は、脳の中に、この小人が住んでいるとするとよくわかるというのが、「ホムンクルス仮説」だ。しかし、このホムンクルスがいるすると、このホムンクルスを見ているホムンクルス2がいるはずであり、ホムンクルス2がいれば、ホムンクルス3がいるはず……と無限に繰り返さざるを得ず、実際上、「仮説」としても、それを論じることは忌避されているのが、「脳科学」の現状らしい。
 ということで、ちょっと意外だったのが、本書の解説で養老孟司が、科学者が論争をする時など、「それは推論に過ぎない」と、論議そのものを拒否されることが多いと書いていたことだ。養老先生は、「じゃあ、相手は、相手が話していることが推論(スペキュレーション)であることをわかっているのだから、実害はないじゃないか」と軽妙に反論していたが、それはともかく、ダーウィンの進化論なんか、まさに綿密な生物観察をもとにした「推論」なんだが……ところが、実際、日本の教科書では、進化論の本質に関わる部分、つまり、「推論」として進化論を記述することは、義務教育においては認められていないんだそうだ。まあ、たしかに「進化論」はいろいろ論争の的で、記述もしょっちゅう変わっているのではあるけれど……でも、「進化論」は皆、たとえば「人間の祖先は猿です」といった形で知っている。。「人間の祖先は猿」は、推論ではないというのだろうか。変な話だ。