パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

昨日の続き

2005-10-02 13:49:10 | Weblog
 というわけで、無数にいるフリーの客をその都度パクっては、「後は野となれ」の悪徳商法は、理論的に言っても限界があるということになる。だからといって、岡田某のように、「私、真面目ですので支持して下さい」なんて自分で言ったら、まさに身も蓋もない。(自分では言っていないと言うかもしれないが、周りのスタッフがしきりに言ってたんじゃア、同じこと)
 というわけで、「民主党惨敗残念会」だった朝生だけど、二つ三つ、言いたいことを書くぜい。

 まず憲法問題について、憲法とは権力の暴走をチェックするためのもの、という発言があった。まあ、これは朝生に限らず、憲法の話題になると、「憲法の定義」として、必ずといっていいくらい出てくる。まちがではないが、「それだけじゃあ~、ないだろッ!」(阿倍寛風に読んでね)。
 実は、憲法には三つの任務がある。このことは、憲法の教科書には必ず書かれている。(小林節君! 憲法学者なら、ちゃんとことわなければあかんだろうに)
 その一つは、権力創出の任務。これがまず第一。今、イラクでもめているのも、憲法によって創出される「権力」を、民族(部族といった方が近いのかも)、宗教勢力が争奪戦を広げているのだ。
 第二は、かくして創出された権力をどう規制するか。これが、「憲法は権力の暴走をチェックするためのもの」というものだ。
 以上の二つは、伝統的憲法学の立場で言われているものだが、最近、憲法にはそれ以外の要素も必要といわれだした。それが、第三の任務で、「公共性」を憲法にどう盛り込むかという問題である。
 伝統的立場では、憲法は国民国家の根幹であり、国が自由(というか、勝手)に作れる。つまり、「こんな憲法じゃだめ」と他国が口を挟むことはできない。
 これじゃあ、まずいんじゃないのということで出てきたのが、国民国家の枠を越えた、グローバルな価値観を重視しなければならないとする「第三の任務」なわけだ。簡単に言うと、たとえば、「一党、あるいは個人による独裁を憲法に定めてはならない」といったようなことだ。
 もっとも、この「第三の任務」は、私が道ばたで拾った憲法の教科書に書かれていたことで、専門家の間で一般的に認められたものではないと思う。(しかし、「事実」としては「国家の枠を超える価値観重視」の傾向はあると思う)

 というわけなんだが、日本のマスコミに登場する論者たちが一様に、「第二の任務」ばかりを強調するのは、なんでだろう。
 考えるに、日本における「権力」は、千数百年前に天皇家の先祖によって17条の憲法として「創出」されて以来、連綿として続いている。したがって、あえて今さら「権力創出」するまでにも及ばない――私なんかは、原則的にはそう考えているのだけれど、しかし、それも現行憲法で「主権在民」に移った。てことは、今、権力は「民」にあるわけだ。したがって、私のような「右翼論者」が「権力(民)の横暴」を糾弾するならわかるが、斯く主張しているのはもっぱら左寄り論者たち……何故だ? 単にバカなのか? そうだったりして(笑)。

 「二、三」とか言いつつ、なんか、またまたややこしくなったんで、これきりにて仕り候。

 では、また。

 

不思議なこと

2005-10-01 16:04:11 | Weblog
 一見まずそうな店で、実際食べてもまずいのに、何故かそこそこ繁昌している定食屋の不思議を昨日、書いたのだが、「どっちだ3」で書いた、例の「ワンダフル」の話。

 今、お買得なのは、グレープフルーツ五個178円だ。やや小振りで、味もそんなに良いわけではないけれど、安い果物にありがちな、パサパサした感じはない。ちゃんと、みずみずしい。果物はみずみずしくなくっちゃ、だ。その意味では、「満足」だl。一個40円にならないんだから、文句はいえない。(でも、バサバサだったら、値段に関わらず文句を言っちゃうね)
 そんなわけで、このグレープフルーツはよく売れているようだが、試みに買ったジャガイモスープははずれだった。好みの問題かもしれないが、なんか、しょっぱい。「失敗だったな」とおもいながら考えたのだが、このジャガイモスープの売れ行きはどうなんだろう。まずければ、売れないはずだ。しかし、買ってみないと「味」はわからない。もちろん、「うまい」のも、「買ってみなければわからない」ことは同じなわけで、だとしたら、「売れる/売れない」の区別はどこでつくのだろう。口コミだろうか。

 「奥様、ワンダフルの○○、おいしゅうございますわよ、でも、△△はダメざます」

 ……こんなんで、全体の数字が決定されることはないだろうな、やっぱり。大体、「好み」というものは、個人的なものだし、「味」については、比較的意見のばらつきは少ないが、本とか映画といった「文化メディア」の場合は、他人の評価はまったくあてにならない。……てことは、結局、個人が何回繰り替えし買ってくれるか、が決め手となるのだろう。つまり、リピーターだ。

 この「リピーター」の概念が日本に入ってきたのは、たしか、ディズニーランドが最初だったと思うが、私は、最初、不思議に思った。「固定客」は、その商品の最低レベルを保証するもので、それ以上を狙うなら、フリーの客をいかに引き込むかが問題ではないかと。何故なら、「フリーの客」は無数いるわけだし、その無数の人の一部が、各々一回だけ来たとしても、合計すれば膨大な数字になるだろうと。でも、ディズニーはそうではないと言った。そして、それが正しかったのだ。

 飛躍した言い方になるけれど、この問題は、「コミュニティの基本はヒューマンサイズにある」ということと関係がある。ヒューマンサイズとは、言い換えれば、歩いて行ける範囲にすべてが整っていることだ。
 私は外国にはほとんど行ったことがないので、とても意外に思ったのだが、ニューヨークでもパリでもロンドンでも、「歩いてまわれる」というのだ。もちろん、ニューヨークの端から端まで歩いて行けるわけではなく、「歩いて行ける範囲内で生活ができる」ということなのだろう。それも、ニューヨークならニューヨーク、パリならパリらしい生活ができると。
 翻って、東京はどうだろう。たとえば、ここ新宿五丁目は……? ここは、ちょっと特殊で、たとえば映画館なんかは歩いて行ける範囲内にいくらでもあるわけだが、実際には埼玉や神奈川からはるばるやってきた観客たちと、心理的には同じだ。つまり、「自分の街の映画館」というわけにはいかない。まあ、それはしょうがない面もあるのだが、東京全般ということで考えたらどうだろう。はっきり言って、だだっぴろすぎて、「住めば都」ということにはなりそうもない。
 しかし、「歩いて行ける範囲で暮らせる」という都会生活のコンセプト(考えてみれば、電車や車が不可欠なのは田舎だ)に、自治官僚たちが気づきはじめているようなので、今後に期待しよう。(ここでもマスコミはスルーされている……んじゃないかと思う)

 昨日の「朝生」について書こうと思って(まるきり、「民主党敗北残念会」だった。山本一太なんか、なまじ、出ないほうがよかった)、その枕として書きはじめたんだが、それだけで終わっちゃった。

 新しいHPの壁紙どうですか、おのでらさん。いいでしょ。土星。「輪の影」てのが雄大。斉藤匡人という人のHPから拝借しました。斉藤さんもあちこちのサイトから画像を引っ張ってコレクションしてるみたいだし、お互い様ということで。(斉藤匡人/宇宙画像でググれば出てくると思います)