パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「イラクサの園」って、覚えてますか?

2005-10-17 17:38:19 | Weblog
 今、南原企画の事務所で連続的に写真展をやっているのですが、前回のEさんの時の話。
 最終日の前日、ラス前ってやつですな、「女流書家」だという人がやってきて、Eさんとの共通の知人である中村某氏の話になった。中村氏は、数年前に脳硬塞で倒れたらしいが、寝たきりになったわけではない。だから、展覧会に来ようと思えば来れるのだが、まだ来ていないとEさんが言った。「女流書家」氏は、じゃあ、私が電話して、来るように言うわ、と言うなり、携帯で「中村氏」を呼び出した。
 「中村さん、Eさんの展覧会、なんで来ないのよ。なに? 脳硬塞で……わかってるわよ、でも歩けるんでしょ。え? もう一度倒れたら死ぬって医者に言われた? じゃあ、なおさらじゃない。Eさんの写真展は、明日、最終日なの。いい、必ず来るのよ! 見納めよ!」
 と、結論的にはこんな強引な内容の電話が延々三、四〇分続いた。時々、その「中村氏」の言い訳している声が聞こえる。でも何と言っているかはわからなかった。

 さて、その翌日、中村さんが現れた。私は、ずっと壁の向こう側で、例のSさん本の仕事をしていたのだが、Eさんが、その私を読んだ。
 「ちょっとちょっと」
 出ていくと、杖をついた初老の男性がいる。
 「昨日の電話、覚えているでしょ。あれで呼び出された中村さんです」
 「あ、どうも」
 「どなたかわかりません?」
 とEさん。
 「……わかりませんが……僕が知っている方ですか」
 「中村です。以前、アランでお世話になりました」
 「……ん? 中村……もしかして、中村裕之さん?」
 「そうです。『刺草(イラクサ)の園』を書いた」

 びっくりだなーもう。覚えている人、いますか? お耽美小説『イラクサの園』。能の宗家であるなんたら老人とその息子たちの話。ストーリーは全然覚えていないが(連載当時もストーリーは、ついいにわからぬまま(笑)だったのだけどね)、なぜか印象的で、だから「中村裕之」という名前も覚えていたのだ。それにしても、こんなところ(?)でお会いするとは、奇遇中の奇遇であると、ひとしきり昔話をした。
 「初老の老人で杖をついている」なんて書くと、いかにも枯れた隠遁老人のイメージだが、中村氏は、実際は、足こそたしかに若干不自由だが、血色も良く、痩せてもいない。でも、もう二回も脳硬塞で倒れたので、医者に「今度倒れたら命の保障はできない」と言われたことは事実らしく、別れ際、「死が近くなると、昔の知り合いに会うそうですよ。私もそろそろ……ハッハッハ」と笑って帰っていったが、「偶然」というものは、時間が長くなれば長くなるほど起こる確率も高くなるわけで、「死期が近くなると昔の知り合いに会う」ということは別に不思議な現象でも何でもない。

 たとえば、ちょっと前に、「凍ったストーブの上のやかんの水が、ストーブに火を入れなくとも、いつか沸騰する」、という話を書いたけれど、これは、「もしかしたらそういうこともあるかもしれない」のではなく、必ずそうなるのだ。
 え? なんで?と思われるかもしれないが、ちゃんと物理学の本に書いてあるのだ。で、その物理学書に従い、もう少しちゃんと書くと、「かつて沸騰していたが、今は冷水の入ったやかん」でも、充分に長い時間をかけると「かつて沸騰していた」状態に必ず回帰するというもので、ポアンカレという数学者が「厳密な数学的証明」を経て主張したことから、「ポアンカレ回帰」と呼ばれている。
 ただし、この「ポアンカレ回帰」が起こるに必要な時間はめちゃくちゃ長い。めちゃくちゃなんてもんじゃない。お釈迦様が何十億回も生まれ変わったとか言うけれど、そんなもんじゃない。
 たとえば、コップ一杯の熱湯がやがて冷えて普通の水になる。これが、「ポアンカレ回帰」で再び熱湯になるのにどれくらいの時間が必要かと言うと、コップ一杯分の水に含まれている水の分子の数をNとすると、10のN乗秒かかる。で、この「N」がどれくらいの数字かというと、コップ一杯分の水の分子1個1個に色を塗った上で、海に注ぎ込む。注いだら、海の水を南極から北極まで、大平洋から大西洋まで、インド洋から日本海まで……ともかく、地球の海すべてを充分にかきまぜる。かきまぜたら、再び、海の水をコップ一杯汲む。そのコップ一杯の水に、最初に色をつけた水の分子がどれくらい含まれているかと言うと、数百個(だったか数千個だったか)もある。あるいは、コップ一杯分の水の分子を1個1個数珠つなぎに繋ぐと、地球から太陽まで何往復もできる……とか、まあ、いろいろな「喩え話」があるが、そのような膨大な数のベキ数秒かかるのだ。具体的に言うと、10×10×10×10×10×10を……よくわからないけど、何兆の何兆倍回か繰り返した秒数だ。
 といってもまだピンと来ない方には、こう言おう。我々が生きているこの「宇宙」の年齢(130億年)ですら、まだたったの10の17乗秒、つまり、10を17回かけた秒しか経っていないのだ。
 じゃあ、 要するに、「ポアンカレ回帰」なんて我々には関係ないじゃんと言えばその通りなのだけれど、そんなことは宇宙開闢以来、一度も起きていないかというと、そうではない。我々の身の回りで、しょっちゅう起きてはいるのだ。
 たとえば、コインを三個用意して、それを机の上にばらまく。最初は、……なんでもよいが、わかりやすくするために、三個とも表だったとする。次に、「三個とも表」という状態に「回帰」するには、五、六回も繰り返せばよいだろう。四個だったら、もっとかかるが10分もやっていれば、大丈夫だろう。でも、10個だったら、一晩中繰り替えしてもだめかもしれない。20個だったら、100個だったら……というわけだ。これをコップ一杯の水にたとえれば、何百兆個もあるだろう水分子のうち、三個、四個、十個、百個……といった範囲内で観察すれば、「ポアンカレ回帰」はしょっちゅう観察されるが(実は、これが「ブラウン運動」なのだけれど……と思うのだけどね)、何億個単位(それでも水滴1個にも全然満たないだろうが)だったら、何百億年も観察し続けなければ、「ポアンカレ回帰」を観測することはできないのだ。

 とまあ、そういうとてつもない話しなのだけれど、モノの本によると、ニーチェの「永劫回帰」思想は、この「ポアンカレ回帰」に刺激されたものらしい。実際、「ポアンカレ回帰」にしたがって物理現象を研究し、「エントロピー概念」を仕上げたボルツマンという物理学者は、ニーチェに先立つロマン派哲学者の嚆矢、重鎮であるショーペンハウアー哲学に凝ったあまり、自殺しちゃったらしいし。

 と、中村先生の「イラクサの園」に近い話題に回帰したところで、では、また。