携挙は聖書的な教理か。
携挙は本当に聖書の中に(書いて)あるのか。
ディスペンセーション主義が危険な教理であることは、くり返し指摘してきた。
この考え方は1800年代にダービーが提唱した教理(近日中に視聴予定)。
この教理から誘導されたプレミレ、前艱難携挙、全民族的ユダヤ人救済、に関する教理も甚だ怪しいということになる。
つまり、検証が必要。
このようなことに疑義も呈さず丸呑みしている人は、本当に新生しているのかどうか疑わしい。
今回から携挙(rapture)というテーマを新設し、追及していく。
まずは、以下の分かりやすい動画を聴いてみる。
☞ The Rapture is NOT in the Bible
注)途中マタイ24章を引用しているが、この箇所はイエスの再臨(second coming)の預言ではない。神の怒りと裁きによるイスラエル(旧約時代)滅亡の預言。引き上げられる人々とは、イエスに聞き従わず神殿を目指して虐殺されたユダヤ人を指すと考えられる。しかしながら、世の終わりにも極めて類似したことが起こると思われ(良い麦と毒麦のだとえ、黙示録20章など)、この動画内容の信ぴょう性は損なわれないと考える。
最初から4分46秒まで。
◇◇
聖書にありもしないことを信じている人たちがいる。
例えば、エデンの園にある食べてはならない果物は、りんごと同定されたわけではない。
ヨナを飲み込んだのはクジラであると聖書に書かれていない。
イエス生誕の日に訪れた賢者の人数は福音書に書かれていない。
さて、携挙だが、実は聖書にはどこにも存在しない学説なのだ。
さあ、解説していこう。
多くのクリスチャン、特にアメリカのクリスチャンにとって、携挙(rapture)は争う余地のない教理であると信じられている。
処女降誕や復活に関しては問題はない。
ある日、瞬きする瞬間に、すべての真のクリスチャンが突如いなくなり、しわくちゃの衣服のままイエスとともに天に上げられる。
多くの人たちはこのように教えられてきた。
携挙とは、イエスがご自身の民を地上における神の裁きから救い出すための方法。
一方、残された人たちはみな恐怖と艱難に直面する。
偉大なストーリ-だ。
そうして、多くの年月にわたって、非常に多くの書籍や映画が創られてきた。
著作「レフトビハインド」だけでも、65億冊以上の売り上げを誇る。
ニューヨークタイムズのベストセラーリストの第1位を獲得した。
福音派の映画産業界、書籍、ラジオ放送局、巨大教会、テレビ業界、競技連盟などは、携挙物語を幅広く広め、多額の富を得てきた。
それを止めることも疑問に思う人もいなかった。
最も重大な問題は、実際に携挙が聖書の中に(書いて)あるのかどうかだ。
そこで、その証拠を見てみよう。
最初に、将来のこと、つまりキリストの再臨と最後の審判を考える時、多くのクリスチャンは黙示録を開いて、その中に携挙の記載があることを期待するだろう。
結局のところ、黙示録とはポートランド州やオレゴン州のようなもので、その中にあらゆる奇々怪々な記述を見ることができる。
獣、煙の立つボール、ドラゴンにまたがる売春婦、目玉で覆われた生き物などなど。
しかしながら、その中に、携挙の記載をひとつとして見出すことはできない。
一言も言及がない。
その代わりに、新約聖書の中に、携挙提唱者が唱える携挙の記事が2箇所存在する。
そこで、それぞれの箇所を開いて、その個所に何が書かれているかを検証していこう。
最初の箇所は、マタイ24章。
この章において、イエスは、突然に、思いがけない時に来るから、ご自身の来臨に油断なく備えるように弟子たちに話している。
40節、41節にこうある。
レフトビハインドという携挙の有名なことばがある。
イエスは、「ふたりの男が畑にいると、ひとりが取られ、もうひとりは残される。ふたりの女が手臼を引いていると、ひとりが取られ、もうひとりは残される」と言った。
そう、映画にある通り。
ひとりが天に携挙され(引き上げられ)、もうひとりは取り残されて、艱難に遭遇する。
違う、そうではない。
これらの聖句を、文脈から読み解く必要がある。
直前に書いてあることが大変重要だ。
それは、まるでノアの日のようだ。人の子がやって来るのもそのようだ。洪水が起きる数日前、人々は飲んだり、食べたり、結婚したり、嫁いだりしていた。ノアが箱舟に入る日まで。洪水が起きて、彼らが皆取り去られるまで、人々は何が起きるか分からなかった。人の子が来るのもそのようなことになるだろう。ふたりの男が畑にいると、ひとりが取られ、もうひとりは残される。ふたりの女が手臼を引いていると、ひとりが取られ、もうひとりは残される。
イエスは、ノアの洪水と主の来臨を比較する。
その話の筋において、ノアと彼の家族は取り残され、他のあらゆる人々は洪水にさらわれた。
これは神の裁きだった。
故に、イエスが来臨して、ひとりが取られ、もうひとりが残ると言う時、取られた者は天に携挙されるのではなく、神の御怒りと裁きのために取られるのだ。
残された人(レフトビハインド)は、実際にノアのように安全が担保される。
ルカ17章に平行記事があり、このことがより一層明らかとなっている。
その夜、ふたりの男がひとつのベッドに寝ていると、ひとりが取られ、もうひとりは残される。ふたりの女が臼を引いていると、ひとりが取られ、もうひとりが残される。
「(取られた場所は)どこですか、主よ」と、弟子たちは尋ねた。
イエスは答えた、「死体があるところには、はげたかが集まる。」
イエスは死と裁きによって人が取られると言っているのであって、はげたかが天を意味しているとは到底思えない。
つまり、取り残されるというストーリーは携挙のことを指しているのではない。
このことを携挙擁護者たちも認めているというのだから、馬鹿げた話である。