みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#193 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.5

2024年02月19日 | 終末預言 

Derek Thomas: The End in Sight 

3分41秒から14分57秒まで。

◇◇

神は聖、みことばは無謬です。

この聖書の学びに、神のご加護がありますように。

さて、「終わりは間近にある」と表題を付け、今日のメッセージをしようと思います。

このことはクリスチャンの生き方を総括することになります。

この世の事々ではなく、預言者イザヤのことば「新しい天と新しい地」を投影するペテロのことばにあるように、終わりの日に到来するはずの事々に焦点を当てる生き方をしようではありませんか。

今日は詳細には触れませんが、ペテロはこの手紙をAD68年に書き上げました。

同年彼は殉教しました。

ほぼ同じ時期に、使徒パウロもローマで殉教しています。

従って、この手紙は、そのおよそ1年前、AD67年に世に出たものと思われます。

私たちは、イエスの死と復活の後の世代であります。

今も、新約聖書の手紙は神によって息づいています。

そして、神の人イエスキリストがあらゆる御業を完遂して下さった、その義によって、それらの手紙は教理や非難、修正、そして教えにとって大変有用です。

イエスの昇天と最初の新約聖書の手紙、そして福音書が世に出るまでの時期は、およそ50年代後半から60年代前半であり、教会にとって、大いなる争いや困難、そして誘惑の期間でした。

もちろん、その頃はまだ使徒たちが(生きて)いました。

また、偽使徒、偽教師で溢れている時でもありました。

「主イエスの再臨を信じるクリスチャンをさげすむ偽教師が現れる」と、ペテロは小アジアの教会に手紙を書き送っています。

生きている間にイエスが再臨すると信じていた多くのクリスチャンは、大変混乱しました。

彼らがイエスの来臨を信じていたというのはうなずけます。

イエスは来臨の時期を明確に言いませんでした。

それ故、当時のクリスチャンは、間もなく主は自分たちが生きている間に、25年か30年の間に、来られると期待し待ち焦がれていました。

しかし、主はなかなか来てくれない。

それで、主の日は来ないではないかと言う人たちが出てきました。

嘲り者や偽教師はこの問題に火を注ぎました。

マタイ24章、25章にあるオリーブ山でのイエスの説教を呼び起こします。

「気をつけていなさい。主の日がいつ来るか分からないのだから。しかし、このことは覚えておくように。泥棒が夜の何時に来るのか家の主人が知っていれば、彼は見張りを続け、家の中に入られることはなかっただろう。同様に、あなたがたも準備をしていなさい。何故なら、人の子はあなたがたが期待していない時にやって来る。」

イエスは、恐らく再臨を待ち望み疲れて、怠惰になっているクリスチャンに語りかけています。

彼らは家の玄関や窓を開け放ち、泥棒が侵入する機会を与えている。

「油断してはならない。あなたがたは私が戻る日を知らない。」

ヨハネや使徒パウロも、マタイ24章のオリーブ山の説教にある内容に言及しています。

ペテロやヨハネ、パウロは、この事を話す機会が何度かありました。

来臨の日、世の終わりの時には万物が変わります。

それは主イエスの再臨の時、すなわち裁きの日であります。

義が宿る新しい天と新しい地が訪れる時であります。

しかしながら、遅延があり、遅れている。

何故遅れているのか。

この遅延はどれくらい続くのか。

ペテロはAD68年に殉教しました。

つまり、少なくとも35年の遅れです。

ある人たちは、主の再臨や同時に起きる大火を疑い始めました。

またある人たちは、主イエスが言ったことは霊的な意味だったと考え始めました。

イエスは、家の扉を開け広げているという不信仰な心、無知、浅はかさについて言及しています。

私が若い頃は、1週間玄関を開けたままでも安全でした。

鍵をかけずに車を田舎の村に駐車しても何も起きませんでした。

しかし、今はそんな時代ではありません。

さて、始めに、ひとつ質問があります。

午後のセッションは難解です。

午後の礼拝のメッセージについて、スポルジョンは次のように呼びました。

「ローストビーフと不信仰タイム」(笑)

お腹がふくれると、睡魔に襲われます。

そこで、お願いがあります。

この場からあなたがたは見えないので良いのですが、頭がこっくりこっくりしているのは分かります。

目を閉じているかどうかは分かりません。

ここから、話の本筋に入ります。

次の箇所は神学的に異論のある箇所であり、特にリゴニエミニストリーにとってはそうです。

ペテロがこのテキストを書いていた時、恐らく彼の頭の中にリゴニエのことがあったのだと思います。(笑)

ここには、神の予定論に関する記載があります。

実に不思議に思えるような神の願いが書かれています。

注意深く解釈する必要があります。

今この午後の時間、最初に考えたいことは、神のタイミングということ。

神が遅れるということは絶対にありません。

ガンドルフ氏がそんなこと言ってませんでしたか。

神は決して遅れない。

私たちには、神が遅れているように思えることがあります。

何年も何年も何年も祈る続けることがあります。

放蕩している息子さんや娘さんが改心するように、病気が癒されるように。

数か月、数年、数十年と時が過ぎていきます。

そして、「神は遅い」と自問します。

「何かが神の邪魔をしているにちがいない。」

「神はのんびりしている。」

この35年もの歳月といい、イエスが昇天してからいまだ来ていないこれまでの間といい、この長い年月のギャップは一体何なのだろうか。

言うまでもなく、今に生きる私たちにとってはなおさらのこと、すでに2000年が過ぎ去りました。

ペテロは、これは神の忍耐である、と言います。

神の忍耐。

誰ひとりも滅びることがなく、すべて(all)の人が悔い改めるようにと神は願っている。

すべて(all)の意味とは何か。

「神は何処にいるのか」と問うことがあります。

これは、ヨブ記の中心にあるテーマです。

ヨブは苦悩の中にいた。

彼は自分の苦悩を無実の苦悩と表現しました。

彼は不正な被害者だった。

どこに神はいるのか。

何故神は祈りに応えてくれないのか。

何故神は沈黙するのか。

何故神は何もしようとはしないのか。

今のこの社会において、フォックスニュースを10分間聞いただけで、頭がおかしくなります。

日々限界です。

「何故神は何もなさらないのか。」

新聞の見出しを見るにつけ、そう思いませんか。

「何処に神はいるのか。」

「何故神は天を引き裂き、下りて来ないのか。」

「何故悪人が栄えるのか」と、常々疑問に思っている。

詩篇78篇におけるダビデの疑問と同じ。

私たちと同様、ダビデにとっても複雑な疑問。

「何故悪人が栄えるのか。」

カリフォルニアやフロリダでは(悪が栄えていますか)どうですか。

もちろん、その答えは、「私たちは神の御心を知ることはできない。」