みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#450 神の法序論

2019年11月09日 | 神の法
序論
啓示と条約としての律法
 
p6~
The Law as Revelation and Treaty
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

旧約は律法の書であり、新約は恵みの書であるという伝統的な分け方は誤り。

まったく根拠がない。

旧約において、恵みとあわれみは律法の前提。

新約の出来事において示されている神の恵みと愛は、新しい契約が規定している法的義務の範囲内で起こっている。

旧約聖書には、律法の発達には長い歴史があったことを示す証拠が含まれている。

これは、律法の位置について十分な理解が得られる以前に評価しなければならない。

パウロがガラテヤ書やロ-マ書において為した律法批判は、旧約聖書の律法理解に対してではなく、それとは異質の律法解釈に対して向けられていた。

コメント:

マタイ7:12原典c
・・οὗτος γάρ ἐστιν ὁ νόμος καὶ οἱ προφῆται.

黄金律と呼ばれる聖句であるが、前半は以前に考察したことがある。

今回注目したい箇所は最後の文章。

律法と訳された単語は、ὁ νόμοςで、ὁは定冠詞、νόμοςが法という意味の男性名詞。

言い換えると、νόμοςの頭に定冠詞ὁが付されて、初めて「(旧約)律法(the Law) 」という意味になる。

このことを念頭に置いて、詳細に新約聖書に目を通していく。

こちらのサイトを見て欲しい。

3551. nomos

右欄を見ると、日本語訳において、「律法」と訳された単語を含む福音書聖句が列記されている。もちろん律法とは旧約律法であるが、以下ὁ νόμοςを、広く解釈して「聖書律法」という意味で捉えることにする。

使われている単語νόμοςは、例外なく定冠詞付き。または、主の(律)法。

これらの聖句に登場するὁ νόμοςは、文意から「聖書律法」という意味以外にあり得ない。つまり、νόμοςを「聖書律法」the Lawと訳出するためには、定冠詞が必要であるということが分かる。

続いて、左欄を見ていく。

無冠詞で使用されているνόμοςは、a lawと訳出しておく。

左欄には主にパウロの手紙においてνόμοςが使われている聖句が引用されている。

よく見ると、パウロの書簡において使用されているνόμοςは、定冠詞のない状態で使用されている場合が目立つ。

上から適宜、定冠詞ὁの付かないνόμοςが使用されている聖句を見ていきたい。

ローマ9:31直訳
But Israel, which followed after a law of righteousness,
hath not attained to a law of righteousness.

原典を見ると、νόμοςに形容詞がかかっているのもかかわらず、定冠詞ὁが付されていない。直訳すると「義の法」であり、聖書律法ではない。簡単に説明すると、「当時のイスラエルが義と考えていた律法のようなもの」と理解するのが一番分かりやすい。次の聖句を読むと、「つまずきの石」とあるが、これと同義か。

ヘブル7:16直訳
Who is made, not after a law of a carnal commandment,
but after the power of an endless life.

この聖句に出てくるνόμοςも無冠詞で使用。「肉の命令の法」と書いてあり、「聖書律法」という意味はない。

日本語訳では、文法を無視してνόμοςを単純に「律法」と訳出しているので注意が必要。

ガラテア2:19
For I through a law am dead to a law,
that I might live unto God.

この聖句は極めて重要。νόμοςに定冠詞は付されていない。つまり、聖書律法という意味ではない。「ある法」という意味。

パウロは律法に従ってクリスチャンを迫害した。しかし、その律法とは、聖書律法ὁ νόμοςではなかった。パウロが勝手に彼のオツムの中で創り上げた律法モドキだった。この律法モドキ(a law)に死んだと書いてある。

律法モドキを通過して、律法モドキに死んだ。

私は聖書律法のかけらすら分からない全くの愚か者だったと嘆く。

律法モドキとは、自分が勝手に創り上げた聖書解釈であり、己れが神であるヒューマニズム(人間教)に良く似ている。

ローマ2:23直訳
Thou that makest thy boast of a law,
through breaking the Law dishonourest thou God?

人間教を誇るということは聖書律法違反であり、神を侮っているということがなぜ分からないのか

2行目のνόμοςはτου νομου とあり定冠詞付き。よって「聖書律法」と訳した。

ガラテア2:21直訳
I do not frustrate the grace of God:
for if righteousness come by a law,
then Christ is dead in vain.

この聖句も極めて重要。

私は神の恵みを決して無にしない
もしも義が人間教を通して(ある)なら
キリストは無駄死にしたことになる




#449 神の法序論

2019年11月07日 | 神の法
序論
啓示と条約としての律法
 
p5~
The Law as Revelation and Treaty
INTRODCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

第五に、法体系はすべて、その法体系の根底にある宗教と異なる宗教に対して不寛容。

寛容とは、別の不寛容な体系を構築するために新たな法体系を導入しようとする者の口実にすぎない。

法実証主義は、ヒューマニズム信仰。

それは、聖書の法体系に残忍なまでに敵対するにもかかわらず、自分は開かれた体系であると主張する。

しかし、コーヘン(キリスト教とはまったく無縁な人物であるが)は次のように言う。

論理的実証主義者は虚無主義者であり、彼等の信仰は虚無主義的絶対主義であると。

法体系はすべて、他の法体系や他の宗教的基盤と敵対することによって成り立つ。

もし敵対することをやめれば、自ら崩壊せざるを得ない。

聖書律法の性質を分析するにあたって、まず第一に、聖書律法の啓示的性質を理解する必要がある。

法を意味するヘブライ語は、「トーラー」。

これは、「指示」とか「権威ある導き」という意味。

聖書において法とは、モーセ5書の法典だけではなく、神のみ言葉全体を指している。

初期の預言者は、自らを通して語られた神のみ言葉もトーラーであると述べた。
(イザヤ8:16、20、イザヤ30:9~、イザヤ1:10)

ヤーウェが命じた命令を書き留めたものも初期の預言書ではトーラーと呼ばれている。
(ホセア8:12)。

さらに、儀式だけではなく、倫理について言及している箇所もある。

これらの事から、次の結論を導き出すことができる。

トーラーは、神の指示・命令を指す。

あるものは、大昔に書き記され、祭司によって保管され宣言された律法。

あるものは、その時代に祭司が神から示されて語ったこと。
(哀歌2:9、エゼキエル7:26、マラキ2:4)

あるものは、預言者がある特定の状況に対して語るように神から託されたみ言葉。
(イザヤ30:9)

トーラーの本質はその形態にではなく、神の権威にあった。

律法とは神と神の義の啓示。

律法を軽視してもよいとする意見には聖書的根拠はない。

律法は旧約に属し、恵みは新約に属するとする考えは全くの誤り。

コメント:
パウロは律法を否定したかに関して考察中。
論考がある程度まとまったらアップしたい。



#448 神の法序論

2019年11月05日 | 神の法
序論
啓示と条約としての律法
 
p5~
The Law as Revelation and Treaty
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

国家宗教である現代ヒューマニズムは、法源を国家に求める。

そのため、国家や人民(人民は国家の中に存在するので)が神となる。

毛沢東が言うように、彼らの神とは中国人民大衆にほかならない。

歴史的に見れば、西洋文明のパワーとバイタリティーの源は聖書信仰と法にあった。

現代西洋文化の法源は、徐々に神から人間(もしくは国家)に移っている。

法の変化は、社会を支配する宗教の、顕在的もしくは潜在的変化の現れ。

事実、法の改定は、宗教が変化したことを如実に示す。

法の基礎が聖書律法からヒューマニズムに移行するとき、社会はそのパワーとバイタリティーをキリスト教有神論からではなく、ヒューマニズムから引き出そうとする。

社会から宗教を完全に締め出してしまうことはできない。

教会を破壊することはできる。

ある宗教を別の宗教と入れ替えることも可能。

しかし、宗教を完全に排除した社会(宗教的真空社会)を作ることは不可能。

法の基礎から宗教性を除くことはできない。

宗教的な基盤を持たない社会などは存在しない。

宗教の道徳観の具体化としての法体系を持たない社会などは存在し得ない。

コメント:
まずきちんと定義しておきたい。

聖書律法とは、モーセ律法に限らず、新旧聖書に書かれている一字一句すべて(但し、誤訳を除く)。

この世は法的にはすでに神の支配下にある、つまり神の法の下にあるのだから、クリスチャンであれば、国家法として聖書律法を採用すべきであるという主張は当たり前ではないかと書いた。

富井師のHPの中にビックリ仰天するような関連記事を見つけた。
救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する4

以下、引用開始--

<Y>

このような過激な主張が出てくる理論的背景には、人間は自律的存在ではなく他律的存在であり、結局のところ、人間のすべての理性的判断は、神を信じる信仰と旧新約聖書の啓示に根拠して下されなければならないということです。
そして、聖書が「処刑せよ」と命じている限り、人間は純粋にそこだけを出発点として社会や司法を構築しなければならない、という考え方です。聖書の権威は絶対的であり、聖書の下す命令に対して、人間は絶対に服従しなければならない、ということです。

<T>

Y氏はここで恐ろしいことを主張しています。(*)

(1)人間は自律的存在である。
(2)人間のすべての理性的判断は、神を信じる信仰と旧新約聖書の啓示に根拠して下されなければならないとは限らない。
(3)聖書の権威は絶対的ではない。聖書の下す命令に対して、人間は必ずしも絶対に服従しなければならないというわけではない。

--以上。

どちらの主張が正しいかは読めば直ちに分かる。

知らず知らずのうちに、敵の術中に嵌まり、混ぜ物をしているのに全く気が付かない。これがこの国の世俗教会の実情ではないかと思われる。

現在The Institutes of Biblical Law、Rousas John Rushdoony通読中だが、別段過激だとは思わない。これでは、ルシファー教と揶揄されても致し方あるまい。

その他の記事について

救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する

結論;進化論と人間教に毒されたディスペンセーション主義は相手にしないこと。




#447 神の法序論

2019年11月04日 | 神の法
#447 神の法序論

序論
啓示と条約としての律法
 
p4~
The Law as Revelation and Treaty
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

どのような社会においても、法は宗教的。

法は人間と社会を支配し、正義を定義し、何が善で何が悪であるかを決定する。

また、一つの社会の究極的関心事を具体的な形で決めるので、法は不可避的に宗教的となる。

あらゆる法研究における基本的かつ必然的前提とは何か。

第一に、法の宗教性の認識。

第二に、法源 (source of law)はその社会の神であるという認識。

もし法源が人間の理性であれば、理性がその社会の神。

もし法源が寡頭政治家ならば、その寡頭政治家がその社会の神。

もし裁判所、議会、支配者が法源であるならば、彼等がそれぞれの社会の神々。

古代ギリシャにおいて、法は人間中心主義(ヒューマニズム)的概念だった。

聖書啓示に起源をもつ法律とは対照的に、ギリシャ人の法(νόμος、nomos)は、心(νοῦς、nous)から生まれる。

純粋なνόμοςとは、単なる拘束法ではない。

その内に固有の価値を有する実体が含まれ、割り当てられているもの。

それは、有史以前から存在し、価値があり、実現される秩序。  

ギリシャ人にとって、心は事物の究極的秩序と一体だった。

それゆえ人間の精神は、諸々の出来事や事実の迷路をくぐり抜け、事物の根本的イデアに達することによって、外的な助けなしに究極の法(νόμος)を発見することができた。

結局、ギリシャ文化は、人間精神を究極の座に置くヒューマニズムとなった。

それだけではなく、精神が真に精神となるために、非精神から自らを切り離したため、新プラトン主義、禁欲主義になり、物質世界に敵対するようにもなった。

コメント:
これまでもくり返し出てきたように、現在の国家法のバックボーンとして採用されているのが人間教(ヒューマニズム)。起源はギリシャにあると書いてある。
著者であるRushdoonyは、聖書律法を国家の法源として採用すべきであると主張する。
この世は法的には神の支配下にある、すなわち神の法の下にある。
故に、クリスチャンであれば、極々当然の主張ではないかと思う。




#446 神の法序論

2019年11月03日 | 神の法
序論
聖書律法の有効性
 
p3~
The Validity of Biblical law
INTRODCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

無律法主義的なキリスト教(ディスペンセーション主義)は、言葉の上で矛盾しており、反キリスト的。

恵み(の目的)は、律法を廃棄することではない。

律法を成就し、人間が律法を守ることができるように導くこと。

罪人を贖うために、神の独り子イエス・キリストが死ななければならなかったほどに神の眼に律法は極めて重大だった。

そうであるなら、贖いが完成したのだから律法は廃棄しても良いなどと神が言うであろうか。

律法の最終ゴールは、無律法ではない。

恵み(の目的)は、恵んで下さった神を無律法者と侮蔑することでもない。

法と秩序が今日崩壊しつつあることの責任は、第一に教会と教会の無律法主義にある。

もし教会が法に関していい加減な態度を取るのであれば、世の人々はそれに倣わないであろうか。

聖書律法は、民法、教会法、社会法、家族法、その他すべての法律の基準。

法律を聖書律法から切り離すことはできない。

聖書律法を軽んずる社会は自ら進んで絞首台に上っている。

そのような社会を、最後に待っているのは神の審判。




#445 神の法序論

2019年11月02日 | 神の法
序論
聖書律法の有効性
 
p3~
The Validity of Biblical law
INTRODCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇


キリストの来臨の目的は、この文化命令の達成であった。

第二のアダムであるキリスト(第一コリント15:45)は、律法に完全に服従された。

キリストは、選びの民を贖い出して義の身分に回復させるために、彼らの罪を負って十字架上で死んで下さった。

贖われた者たちは、原初的創造目的の遂行、すなわち神の下での実効支配、契約遵守、律法の義の完了(ローマ8:4)のために召し出された。

コメント:
律法の「要求」ではない。原典をみると、το δικαιωμα του νομουと書いてある。英訳すると、the righteousness of the law、すなわち律法の義。

律法は一貫して神の目的の中心。

神は、原初的目的を遂行するために人間を再び召し集めておられる。

人が義と認められるのはもっぱらイエスキリストにある神の恵みによるが、聖化は神の律法による。

コメント:
聖化とは分離という意味。
すでにどこかで見たように、病気や悪、異教などから切り離される(分離される)ために律法を守る必要があった(ある)。

神の新しい選びの民クリスチャンは、エデンにおいてアダムが、また、カナンにおいてイスラエルが成し遂げることのできなかった神の使命を遂行するために召し出された。

旧約と新約の間には、神のお取扱いの方法に違いがあっても、適用される契約とその目的に違いはない。

人間は神が求めておられる社会を建設するために召されている。

神が聖定された人間の運命と歴史の中で、われわれは神の律法によってこの世界に働きかけなければならない。

霊の思いはいのちと平和(ローマ8:6)。

霊に従うこと(霊の思考)は、別次元的に考えるということではなく、み霊の導きによって書かれたみことばの指令を適用すること。

コメント:
「霊に従う」と訳出しているが、原典には、φρονημα του πνευματοςと書いてある。直訳すると、霊の思い。つまり、霊の思考パターン、霊の思考様式など。



#444 神の法序論

2019年11月01日 | 神の法
序論
聖書律法の有効性
 
p3~
The Validity of Biblical law
INTRODCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇


律法違反者は、神に敵対しており(ローマ8:7)、罪と死の律法(ローマ8:2)の下にいる。

一方、信者はキリストにあって生命のみ霊の律法(ローマ8:2)の下にいる。

律法は一つであって、それは、神の律法。

刑務所で死刑を待っている囚人にとって律法は死を意味するが、神の人にとっては、その同じ律法が生命となる。

というのは、律法は彼と彼の財産を犯罪者から守るからである。

律法がなければ、社会は崩壊して無政府状態になり、ならず者どもの手に落ちる。

律法の信望と実行は、殺人者にとっては死であり、神の人にとっては生命だ。

同様に、神がご自分の敵をお裁きになる時、律法は死となり、ご自分の民をお恵みになる時、律法は生命の原則となる。

神は、人間を創造した時、地を治め、地上に神の主権を打ち立てるようお命じになった(創世記1:28)。

しかし、人間は、自分の主権を打ち立て、地上に自律的王国を築き上げようとして、罪と死の中に落ち込んでしまった。

そこで、神は、御国を再び築き上げるためにアブラハムを召し出して神の民イスラエルを形成し、彼らに地を与え、それを従えさせ、そこに神の主権を打ち立てるようにお命じになった。

神の御心に適った社会、また、神のみ前で真に進歩・発展する社会は、モーセを通して与えられた律法に基づく諸法律によって築き上げられる。

預言者は、この目的を達成するために、イスラエルを何度も呼び起こした。

コメント:
ローマ8:2のνόμοςを、語義に従って、しっかりlaw(法)と訳出すべき。
「原理」とか「法則」などと訳出するから誤読、誤解を生む。
「罪と死の律法」も「イエスキリストにある命の御霊の律法」も(モーセ)律法そのもの。
異なる2つの原理、「罪と死の原理」「イエスキリストにある命の御霊の原理」があるのではない。いずれも、対極を成すモーセ律法の両側面。
違法者には死を与え、遵法者には命を与えてくれる。
この世において、(エクレシアが)自由奔放に、豊かに生きていくための道しるべだ。