みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#448 神の法序論

2019年11月05日 | 神の法
序論
啓示と条約としての律法
 
p5~
The Law as Revelation and Treaty
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

国家宗教である現代ヒューマニズムは、法源を国家に求める。

そのため、国家や人民(人民は国家の中に存在するので)が神となる。

毛沢東が言うように、彼らの神とは中国人民大衆にほかならない。

歴史的に見れば、西洋文明のパワーとバイタリティーの源は聖書信仰と法にあった。

現代西洋文化の法源は、徐々に神から人間(もしくは国家)に移っている。

法の変化は、社会を支配する宗教の、顕在的もしくは潜在的変化の現れ。

事実、法の改定は、宗教が変化したことを如実に示す。

法の基礎が聖書律法からヒューマニズムに移行するとき、社会はそのパワーとバイタリティーをキリスト教有神論からではなく、ヒューマニズムから引き出そうとする。

社会から宗教を完全に締め出してしまうことはできない。

教会を破壊することはできる。

ある宗教を別の宗教と入れ替えることも可能。

しかし、宗教を完全に排除した社会(宗教的真空社会)を作ることは不可能。

法の基礎から宗教性を除くことはできない。

宗教的な基盤を持たない社会などは存在しない。

宗教の道徳観の具体化としての法体系を持たない社会などは存在し得ない。

コメント:
まずきちんと定義しておきたい。

聖書律法とは、モーセ律法に限らず、新旧聖書に書かれている一字一句すべて(但し、誤訳を除く)。

この世は法的にはすでに神の支配下にある、つまり神の法の下にあるのだから、クリスチャンであれば、国家法として聖書律法を採用すべきであるという主張は当たり前ではないかと書いた。

富井師のHPの中にビックリ仰天するような関連記事を見つけた。
救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する4

以下、引用開始--

<Y>

このような過激な主張が出てくる理論的背景には、人間は自律的存在ではなく他律的存在であり、結局のところ、人間のすべての理性的判断は、神を信じる信仰と旧新約聖書の啓示に根拠して下されなければならないということです。
そして、聖書が「処刑せよ」と命じている限り、人間は純粋にそこだけを出発点として社会や司法を構築しなければならない、という考え方です。聖書の権威は絶対的であり、聖書の下す命令に対して、人間は絶対に服従しなければならない、ということです。

<T>

Y氏はここで恐ろしいことを主張しています。(*)

(1)人間は自律的存在である。
(2)人間のすべての理性的判断は、神を信じる信仰と旧新約聖書の啓示に根拠して下されなければならないとは限らない。
(3)聖書の権威は絶対的ではない。聖書の下す命令に対して、人間は必ずしも絶対に服従しなければならないというわけではない。

--以上。

どちらの主張が正しいかは読めば直ちに分かる。

知らず知らずのうちに、敵の術中に嵌まり、混ぜ物をしているのに全く気が付かない。これがこの国の世俗教会の実情ではないかと思われる。

現在The Institutes of Biblical Law、Rousas John Rushdoony通読中だが、別段過激だとは思わない。これでは、ルシファー教と揶揄されても致し方あるまい。

その他の記事について

救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する

結論;進化論と人間教に毒されたディスペンセーション主義は相手にしないこと。