みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Abiding In Him, #5

2015年05月07日 | 聖書研究・信仰
ぶどうの木の枝のひとつが赤いぶどうを、別の枝が緑のぶどうを、さらに別の枝が濃い紫のぶどうを付けていたら、何かおかしいと思わないだろうか。

それぞれの枝がぶどうの木とは関連性のない独自の実をつけようとしている。

あり得ないし、考えられない。

枝の特性はぶどうの木によって決定づけられる。

しかし、それぞれの経験を断片的なものとして求める人たちがいる。

彼らは十字架、復活、昇天をそれぞれ別物として考える。

ちょっと立ち止まって、考えようとしないから始末が悪い。

聖書に記載されているその全体が、ひとりのパーソンなるキリストそのものなのだ。

主がそのパーソンを見るための目を開いて下さる時にのみ、我々は真の経験を持つことができる。

キリストにあって、ある事実を見い出したということが真の霊的経験の意味だ。

このようにキリストから出たものではない経験は皆、早晩消滅してしまう。

キリストにあって大発見をした時、主を褒め称えよ、それは私のものだから。

私はそれを得た、主よ、何故ならそれは主の中にあるから。

キリストの事実が我々の経験の土台であるということ、これを知ることは何と大いなることか。