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小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

コーチのアドバイス

2010-10-20 17:28:47 | 武道・スポーツ
コーチは外見的な(表面的なフォームの間違い)事は教えられる。「膝を曲げろ」「ボレーではラケットを引かずに打て」等々。しかし、どうしたらそう出来るか、までは教えられない。つまり原理までは教えられないのである。コーチの言う表面的なアドバイスを、そのまま守ろうとしたら、かえって下手になってしまう。では、生徒のなすべき事は何かといったら。まず、コーチはウソは教えない。本当の事しか教えない。だから、コーチのアドバイスは、しっかり頭の中に記憶しておかなくてはならない。そして、生徒は何をなすべきか、といえば。頭で考えるのである。それは、テニスの本を読み、You-Tubeの動画などを見て。そして練習する。練習する時は、いかに力強く打ったり、勝つことを考えるのではなく、どういう動作をすれば、コーチの言ったフォームが現れるか、という事を意識して、練習するのである。
また、コーチのフォームの欠点は無い完璧なものだからといって、コーチのフォームだけを見るべきだとはいえない。なぜなら、コーチは、一日中、テニスをしているから、疲れないよう最小限の動きでボールを打ち返しているからである。それより、生徒の中で、上手い人を見た方がいい。なぜかというと、上手い生徒は、ワンバウンドして落ち際のボールを、腰の位置で打つ、という理想の打点でボールを打っているからである。一方、コーチは、極力、動かないで、高い打点で打ったり、疲れないスライスで打ったりしているからである。だから、コーチを見るより、上手い生徒のフォームを見た方がいいくらいなのである。
そして、自分に無い運動要素もコーチより、上手い生徒を見た方がいいのである。その方が、運動要素が、はっきりわかるからである。
あらゆるスポーツにおいて、プロとか選手とかの、完成されたレベルの人の運動は自然に見えてしまう。だから、見ていると、簡単そうに見え、自分も出来そうな感覚になってしまう。たとえは、体操選手の連続バク転などは、見ていると、自然に見えるから、自分も出来そうな気持ちになってしまう。しかし、やってみれは、全然、出来ないことに気づく。やってみて、はじめて、いかに困難か、ということに気づく。だから、完璧でなく何とか出来ているレベルの人の運動を見た方が、その運動の運動要素や、その運動のおちいりやすい欠点などが、わかりやすいのである。

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偏差値の頭打ち現象

2010-10-19 20:17:22 | Weblog
偏差値の頭打ち現象。私が今までに受けた大きな試験は、大学受験の試験と、医師国家試験の二つだけである。医師国家試験もマークシート形式のペーパーテストで、大学受験のセンター試験とほとんど同じような感覚の試験である。中学、高校は私立の一貫校だったので、入学試験を経験しなかった。そのため、大学受験で、初めて受験勉強というものを経験した。大学受験で、初めて、偏差値の頭打ち現象というものを経験した。単純に考えると、長く勉強をすれば、するほど知識量は増える。これは確かに真理である。と言っていい。しかし。限られた時間の中で、限られた問題を、その場で考えて、いかにたくさん解くか、という試験になると、はなしは違ってくる。どうしてか、という理由は、正確にはわからない。こういう試験では、一年や二年、余分に勉強して、知識を増やしても、成績はそれに比例して上がらないのである。だから現役の時、学力は最高に達する。浪人しても、学力は上がらないのである。医師国家試験では、それが統計ではっきりしている。医師国家試験の合格率は、はっきりと浪人の年数が増えるほど、下がっていくのである。もっとも医師国家試験の場合には、大学受験と大きく違う点がある。それは。浪人するほど、時間が経つから、基礎医学では特に解剖学、臨床医学では臨床実習の知識を忘れていくからである。鉄は熱い内に鍛えよ、で基礎、臨床医学がしっかり頭にあるうちに、何としても合格すべきなのである。それと、もう一つ理由がある。医学は、パソコンや携帯ほどではないが、日進月歩で治療法が進歩し、色々な病気に対する新しい事実がわかってくるから、試験の問題も最新の医学知識の問題に変わっていくからである。だから、医師国家試験では、浪人するほど合格率が下がっていくのである。何としても必死に勉強して、現役で、(最低でも一浪で)合格すべきである。大学受験では、この点は違うだろうから、浪人にともなう合格率の低下は、医師国家試験ほどではないだろう。逆に。国語や社会、小論文などでは、現役の18才では、世間を十分、知ることは困難である。し、教養も十分ではない。社会科系の科目では、年齢が上がることによって、年の功で成績が上がる、ということは、あるだろう。だが数学や物理など、理系の学問は、年の功とは関係がないから、浪人しても成績が上がるということは、ないだろう。

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しなる蹴り。しならない蹴り

2010-10-17 02:49:52 | 武道・スポーツ
さて、同じ空手の蹴りでも、しなる蹴りと、しならない蹴りがある。フルコンタクト系の蹴りは、しなる蹴りである。一方、伝統空手やポイント制の蹴りは、しならない蹴りである。しなる蹴りとは、水泳のクロールの理想的なバタ足の動きと同じである。同じ空手なのに、なぜフルコンタクトでは、蹴りがしなって、伝統空手では、しらならいか。蹴りの原理はフルコンタクトも伝統空手も同じである。屈筋の力をなくし、伸筋の力だけで、足を伸ばすという動作である。では、その理由。まずフルコンタクトで蹴りがしなる理由。それは、相手に最大のダメージを与えるのがフルコンタクト空手の蹴りの目的である。だから、フルコンタクトでは、蹴りの途中までは、伝統空手と同じ原理で、一番、力を込めて蹴り出す。しかし、その後は、足を脱力してしまうのである。そうすると、足先が放り出された物体となって、相手の顔にバシーンと当たる。これが一番、相手にダメージを与えるからである。では、伝統空手やポイント制の空手の蹴りでは、どうして足がしならないか。それは。伝統空手やポイント制の空手の試合の目的は、いかに大きなダメージを与えるか、ではないからである。蹴りの目的は、遠い間合いから、いかにポイントをとるか、である。だから、破壊力より、蹴りの素早さが求められるのである。攻撃は、それ自体、カウンターをとられる危険をはらんでいる。蹴りが、かわされたら、直ぐに、蹴りを引き戻し、カウンターを取られないように、注意しなければならない。一方、フルコンタクトでは、ポイントが勝敗ではなく、相手をノックアウトする事が目的だから、蹴りっ放しでいいのである。直ぐに、もどす事は考えなくていいのである。これが、しなる蹴りと、しならない蹴りの違いである。

さて。ブルース・リーの蹴りは、どっちの蹴りかというと。しならない方の蹴りである。しなる蹴りは、蹴った時に、ズボンの裾が蹴る方向に、そよいでいるから、はっきりわかる。映画で見るブルース・リーの蹴りは、ズボンの裾がそよいでいない。では、実戦を目的としているブルース・リーの蹴りが、何で、しならない蹴りなのか。その理由。それは、ブルース・リーにとっては、蹴りとは、戦いの全てではなく、戦いの手段の一つに過ぎないからである。ブルース・リーにとっての武術の目的とは、ルール無しのケンカである。相手をつかんだり、倒したり、投げたり、関節をとったり、と、戦いにおいて全ての技のうち、敵にとって、もっとも有効な技は何かと、考えているからである。だから、戦いにおいて、敵にスキをつくってはならないから、蹴りっ放しの、しなる蹴りではなく、直ぐに、元の構えにもどれる準備の出来る、しならない蹴りにしているのである。ブルース・リーは、常にガードを考えているのである。

それと、もう一つ理由がある。ブルース・リーは映画として、美しく見える演じる蹴りというものを考えていたから、映画でのブルース・リーの蹴りは、単発の蹴りは少なく、ほとんどが、いくつかの蹴りの組み合わせの連続蹴りである。しなる蹴りは、一撃必殺を狙うから、一発の蹴りに全力を入れてしまうから、蹴りを直ぐにひきもどす事は出来ない。だから、連続蹴りは出来ないのである。連続蹴りをするためには、すぐに蹴りを引き戻せる、しならない蹴りにしなくては出来ないのである。しかし、これは結果論であってブルース・リーの真の目的ではない。ブルース・リーは真の格闘家である。

ブルース・リーは、自分にとっての蹴りの位置づけを知っていた。リーは体重55kgしかない。これほど少ないウェートでは、どう全力で蹴っても、一発で敵を倒すことは出来ない。映画でもリーが一発の蹴りで敵を倒しているシーンは、ほとんどない。リーにとっては、蹴りは、素早く何度も繰り出して確実に相手に当てていき、敵にダメージを蓄積させていくという持久戦がブルース・リーにとっての最上の戦法だったからである。しかし、これはブルース・リーに限ったことではなく、持久戦というのは格闘の基本である。ボクシングの試合を見ればわかる。一発のキックで敵をノックアウトすることなど、めったに出来ることではない。よほどタイミングがあって、相手の急所に運よくあたってくれた場合にだけにしか、一撃必殺は起こらない。

しかし芦原カラテでは、しなる蹴りで、連続した蹴りの型を、やっている。し、出来ている。この理由。それは、芦原カラテでは、パンチとキックだけで戦う、というように、使っていい技を限定しているからである。敵の足をつかまえて倒し、柔道のように寝技で戦うというような泥試合は想定していないから、安心して蹴りだけに専念できるのである。

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お汁粉

2010-10-16 22:53:47 | Weblog
とうとう自動販売機に、お汁粉がはいるようになった。

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エスクリマ

2010-10-16 02:25:31 | 武道・スポーツ
エスクリマとは、ダニー・イノサントが身につけていたフィリピン武術である。二つの棒を持って攻撃するという、このもっとも原始的な武術は、原始的であっても、もっとも恐ろしい武術といえる。武器は長い方が、遠くの間合いから攻撃できるから、有利とは一概にはいえない。長い棒は、懐に入られてしまったら、おしまいである。そして、エスクリマは短い棒だから、相手の長い棒に対して、攻撃をふせぐディフェンスとして非常に有効に使える。

ただ、ブルース・リーの死亡遊戯のように、フェンシングの剣で攻撃されてきたらてこずる。

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後ろ回し蹴り考察

2010-10-16 01:28:06 | 武道・スポーツ
一言でいって。

芦原カラテの後ろ回し蹴り=インパクトの直後に力を爆発させている。

ブルース・リーの後ろ回し蹴り=インパクトの前に力を爆発させている。

の違いだ。芦原カラテの後ろ回し蹴りは、インパクトのぎりぎりまで膝を開いていない。そして、インパクトで、はじめて膝を伸ばしきっている。そしてインパクトの後は膝を曲げていき、元の姿勢にもどる動作に移る。これは、ブルース・リーのように体の回転力を使って蹴る、というより、インパクトの直後に膝を曲げることによって、踵で相手の顔をひっかける、というか、まきこむ、ことによって相手にダメージを与えようとしているのだ。つまりテコンドーのネリチョギ(脳天踵落し蹴り)と同じ原理だ。ネリチョギの場合は、縦の動作だが、芦原カラテの後ろ回し蹴りは、横の動作のネリチョギをしているといえる。

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テニスはガニ股で打つ

2010-10-15 22:01:04 | 武道・スポーツ
テニスで打つ時の足のスタンスはガニ股がいい。ガニ股というより、前足の足先の方向を、打つ方向に真っ直ぐに向けることが大切である。そうすれは、結果として股が開いて、ガニ股になる。勿論、多くのラリーが出来る中級者は、前足を打つ方向に向けている。しかし、無意識に打っていたのでは、前足の足先は、打つ方向に真っ直ぐには向いておらず、やや内気味になる。なぜかというそれが、疲れない自然なスタンスだからだ。これを意識して、股をおっぴろげて、ガニ股になるほど、前足の足先を打つ方向に向けてみるといい。空手道でいえば、後屈立ち、である。これは、フォアハンドとサービスで特に有効である。さらにはバックハンドでも効果がある。

なぜ、ガニ股にするといいかというと、腰の回転と体重移動がスムースに出来るからである。また相手が速いボールを打ってきた時、ボールを打ち返すためには、踏ん張らなくてはならない。そうしないと力負けしてしまう。踏ん張るのに一番いい、足の構えは、足先を相手に向けることである。たとえば。綱引きを考えてみればわかる。綱引きで、一番、踏ん張れるのは、足先をどの方向に向けるのがいいか。言うまでもなく、相手に向けるのが一番、踏ん張れる。

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大学崩壊

2010-10-13 23:11:11 | Weblog
今日の国会中継で、あらためて日本の大学の実情を知った。もう三年から就職活動しなくてはならない。一社で五回以上もの面接。それでも内定がとれない。これでは、勉強も出来ないし、就職も出来ない。一体、大学はどうなるのか?

元々、日本の大学は入って遊ぶ所だった。しかしそれで私はいいと思う。高卒の時点で自分の将来を決定する見極めをするのは、難しいと思う。(子供の頃から、漫画が好きで、漫画ばかり描いていて、将来は漫画家になるという確固とした目的を持っているような人は極めて少ない)大学四年間は貴重なモラトリアムの期間だと思う。大学四年間で、大いに勉強し、遊び、バイトすることによって、社会を知り、自分を知り、自分の適性や、やりたい事を見出せると思う。大学生だって、そのことをしっかり自覚していると思う。しかし、今の大学は、就職活動をするためだけの場所になってしまっているようだ。これでは勉強も満足に出来ないし、自分の適性を見つけることも出来ない。一体、大学はどうなるのか?

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弟子は師を越えない?

2010-10-12 18:56:59 | Weblog
「弟子は師にまさるものではなく、僕(しもべ)は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕(しもべ)は主人のようになれば、それで十分である」
(マタイ伝10章24節)

これは、聖書に数多くあるキリストの毒の発言である。人間をなめきっている、としかいいようがない。キリストよ。ふざけるなよ。こういう態度は、やたらプライドだけ高い、くだらない大学教授が持ちやすい態度である。

本当に、能力も人格も優れた師なら、弟子に、自分を超えて欲しいと思うものである。
10月11日に「人間の尊厳」と題して書いたが、キリストは、人間の尊厳というものを冒涜している。

それに比べ、ブルース・リーは、能力も人格も優れた師である。映画では、ブルース・リーは、不遜な態度の師のようにも見えるが、彼の真意は、そうではない。一部、ブルース・リーの文章を引用しよう。

「教師、ほんとうにいい先生は、けっして真実を与えはしない。彼はガイドであり、生徒が自分で発見しなければならない真実を示唆してやるのだ。それゆえ、よい教師はそれぞれの生徒を個々に研究し、内面的にも外面的にも生徒が自己を探求することを鼓舞し、生徒がついに自分の存在とひとつになれるところまでもっていってやる。よい教師は触媒である。深い理解をもっている上に、ひじょうな柔軟性と感性をもって応じる心をもっていなければならない。截拳道とは単に名称であり、向こうに渡してやる船のように用いられるレッテルにすぎない。いったん渡ってしまえば、捨ててしまっていいのであって、背中にしょっていくべきものではない」
(ブルース・リー)

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検察6

2010-10-11 07:04:14 | Weblog
前田恒彦のフロッピーの書き換えによって、検察の信頼が地に落ちた。取調べの可視化を強く求める声もある。しかし、私は異論がある。

これは、たとえるなら絶対、安全だと思っていた航空会社の旅客機が、事故で墜落し、多数の死者を出してしまった事態と似ている。こういう事態では、その航空会社は世間から徹底的に非難される。だから、事故を起こした後の航空会社は、非常に慎重になる。まず当分は、その航空会社の飛行機は落ちない。

証拠品改ざん、などという行為も、今回の事件で、検察は、徹底的に世間から、非難され、信頼をなくしてしまっているから、検察は、動揺しているだろから、慎重になって、証拠品改ざんなどという行為は、今回の愚行を契機に、まず100%起こらなくなるだろう。

密室での取調べも、検察の捜査は、検察のストーリーに合うように作られるものである、という事を世間にしっかり認知されてしまったから、検察官の取調べの態度も、冤罪をつくることに慎重になって、強引な自白要求ではなく、多少なりとも改善するかもしれない可能性があると思う。

取調べの全面可視化は、まだ決まっていない。しかし、国会や世論の意見は圧倒的に、可視化に向いている。今度、また強引な取調べによって冤罪をつくってしまったら、確実に取り調べの可視化が国会で採決され、法制化されるだろう。それを一番、恐れているのは検察である。だから、検察も取調べが可視化されるのはイヤだから、強引な自白強要が少し改善されるかもしれない。

いきなり全面、可視化するのではなく、少し様子を見ても、いいのではないだろうか。
人間は、何か大きな事件が起こると、極端に走りやすい。

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哲学者

2010-10-11 06:10:37 | Weblog
僕は、このブログで他人の批判的なことを、けっこう書いている。だから僕を二元論者だと思う人もいるだろう。しかし、それは違う。哲学者は一元論者なのである。では、なぜ、僕が二元論的に截然とした態度をとるかというと、それは、僕の中の良心が、他人の心の中の、悪を非難しているだけに過ぎない。もし、僕が、自分の心に悪を見出したら、僕は、自分の悪に僕の良心で正義の鉄槌を下す。また、同時に他人の良心によって、徹底的に非難されたいと思う。僕と他人という区別はないのである。僕と他人という区別はなく、あるのは、ただ、良い心と悪い心の違いだけである。

「私は私に、たまたま生まれついたのに過ぎず、あなたは、あなたに、たまたま生まれついたのに過ぎない。こう思えば、優越感や劣等感はなくなる」

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人間の尊厳

2010-10-11 05:25:40 | Weblog
10月8日にブログで書いた「えみこ」は僕は、僕の彼女だと思っている。
しかし、僕の彼女、という言い方は、ちょっと好きではない。男尊女卑的というか、私が上位であるかのようなニュアンスになるからだ。僕の友達、と言った方が適切だとも思うが、そういう言い方にも抵抗を感じる。友達以上の関係だと思っているからだ。人間の関係は、どっちがどっちを所有したり、所有されたり、する感覚を持ってはならないと思うからだ。私自身、誰かを所有したいとなどは全く思わないし、また誰かに所有されたいとも全く思わない。思わない、というより、人間が人間を所有することは、最も卑しい行為だし、そんなことは、あってはならないと思う。彼女にしてみれば、私は彼女に所有されている人間の一人に過ぎない。一人の人間には、他の人間が入り込むことが出来ない無限の世界を持っているのだ。人間のかけがえの無さは、そこにあるのだ。師弟関係にしても、たとえどんなに優れた師がいたとしても、その弟子が、師の言うことを聞くだけの能力しかなかったら、そんな弟子は、一人の人間としての尊厳も価値もない。自分で考え、自分の意志で行動することにこそ人間の、かけがえのない価値があるのだ。たとえ、その思考がどんなに拙劣な考えであろうとも、そんなことは、どうでもいいことなのだ。自分で考えることを捨ててしまった人間は、もはや人間としての価値がない。だから僕は宗教などというものは、最も愚かしいものだと思っている。宗教の教祖は、人間を奴隷にしようとしているし、信者は、自分から望んで教祖の奴隷となることを選んでしまった愚か者である。

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中国は悪しき隣人

2010-10-10 16:54:19 | Weblog
中国は、悪しき隣国である。しかし今回の衝突事故はいい事だ。こういう事をしていれば、やがて独裁洗脳国家は崩壊していく。日本のとるべき事は、まず外務大臣を更迭し、西尾幹二氏に代える。防衛大臣は、自民党に頼んで石破茂氏にする。そして、集団的自衛権を認める。そして、憲法改正して、憲法九条を取り消す。自衛隊を正式な国軍にする。そして国連の常任理事国になる。そして中国へのODAをやめる。そしてアメリカに頼んで、大陸横断核ミサイルを、東シナ海、南シナ海、に撃ち込んでもらい中国を威嚇する。さらに中華料理は食べてはならないという法律をつくる。まず手始めに、最低限、それだけは、しなくてはならない。

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東亜病夫

2010-10-10 01:00:39 | Weblog
中国は、日本を、「東亜病夫」(アジアの弱者)と見ているとしかいいようがない。

中国人よ。中国政府よ。俺の言うことをよく聞け。いいか。一度しか言わんぞ。

「俺達は・・・弱者じゃない」

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別れ

2010-10-09 17:22:13 | Weblog
10月3日にブログで書いた、「孤独なコーチ」、が辞めることになった。今年の五月から来たから、半年である。なぜ、やめるのか理由はわからない。人気がなかったからか。極めて残念である。彼は、バカ笑いするだけの古参のコーチと違って、少し暗いから、人気がなかったのか。それとも別のテニススクールに変わるのか。それとも、テニスとは、違う何かの仕事をするのか。そもそも彼の素性を知らない。年齢もわからない。彼は大学生で、就職活動のためか。これで、彼のマンツーマンのプライベートレッスンがうけられなくなる。内気な暗い人間は、ものを考える能力があるから、彼には、バカ笑いするだけの古参のコーチと違って、キラリと光る指導能力の片鱗が見えた。少なくとも、正社員のコーチより、遥かに指導能力は上である。残念だ。

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