「釣りバカ日誌」(1998年制作)を見る。当然、小説を書こうと思って、そして書いている人間の立場からである。無から、どうやって面白い話をつくるのか、という原作者に対する、意地悪な視点もある。一番の無理は社長の心変わりに対する無理だと思った。社会的地位の高い人が、社長という立場から離れた時、一般の人に対して、ああまで卑屈な態度には絶対ならない。まるでジキル博士とハイド氏の豹変ぶりである。はじめは原作者の無理だと思った。しかし、こういうパターンの話は決して、失敗しないで作れるものである。それで考えが変わった。原作者の失敗というよりは、俳優の演じ方の失敗だと思った。あまりにも、わざとらし過ぎる。しかし、さらに考えが変わった。俳優は、監督や脚本家の傀儡であるから、監督や脚本家の失敗ではないかと。脚本家は、山田洋二である。私は、「男はつらいよ」の寅さんシリーズが大嫌いである。見たくもないし、ほとんど見ていない。
そこで二つの考え方があると思う。このように、現実性を無視して、ことさらオーバーにして、その落差で面白さ、を出してやろう、という考え方である。日本人の多くは、山田洋二の作品が好きなので、安直でも、その落差の大きさを素直に笑って楽しめるのだろう。いかにも、お茶の間で楽しめる映画である。しかし、もう一つの考え方、というか方法もある。それは、笑いではなく、人間の心理に、(多少のギャップは仕方ないにしても)、あまりにものギャップをつくらないで作れば、感動的な作品も出来るという考え方である。このいい例、がオードリーヘップバーンの「ローマの休日」である。あれは、ギャグはなく、爽やかな心地よさと感動がある。さらに気がついた。いきなり、面白い話、感動する話をつくるのは困難である。ということである。まず、試しに、一つのストーリーを書いてみる。最初から、完璧な物を作ろうとしないで・・・。すると一つの試作品が出来上がる。試作品が、基になって、より良い優れた作品が思いつく、ということは、十分ある。村上春樹は、短編で、試作品を作って、そこからヒントを得て、内容の深い長編を書いている、という傾向がある。創作のスランプを脱出する一つの方法。いきなり、完成作を書こうと思って、呻吟して悩みつつづけず、今の自分の思考の限界での一つの試作品を作ってみる。
そこで二つの考え方があると思う。このように、現実性を無視して、ことさらオーバーにして、その落差で面白さ、を出してやろう、という考え方である。日本人の多くは、山田洋二の作品が好きなので、安直でも、その落差の大きさを素直に笑って楽しめるのだろう。いかにも、お茶の間で楽しめる映画である。しかし、もう一つの考え方、というか方法もある。それは、笑いではなく、人間の心理に、(多少のギャップは仕方ないにしても)、あまりにものギャップをつくらないで作れば、感動的な作品も出来るという考え方である。このいい例、がオードリーヘップバーンの「ローマの休日」である。あれは、ギャグはなく、爽やかな心地よさと感動がある。さらに気がついた。いきなり、面白い話、感動する話をつくるのは困難である。ということである。まず、試しに、一つのストーリーを書いてみる。最初から、完璧な物を作ろうとしないで・・・。すると一つの試作品が出来上がる。試作品が、基になって、より良い優れた作品が思いつく、ということは、十分ある。村上春樹は、短編で、試作品を作って、そこからヒントを得て、内容の深い長編を書いている、という傾向がある。創作のスランプを脱出する一つの方法。いきなり、完成作を書こうと思って、呻吟して悩みつつづけず、今の自分の思考の限界での一つの試作品を作ってみる。