活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

因果の道理8

2020年06月20日 | 法理

人間の考え方を思い切って手放せば、自分の「真相(因縁に因って一々が活動するように出来ている)」が分かるのです。

 

もう少し説明を加えると、仏教では「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」で「意(心)」を、それに対して「六境(色、声(しょう)、香、味、触(そく)、法)」の「法」を対称として示しています。

 

「意(心)」というのは、どうもしないのに、あるいはどうも思わないのに、縁に「触れれば(向かえば)」自然(じねん)に知らず識らずに動くように出来ているのです。

 

それが「法(道)」なのです。

それが現在の私たち衆生の姿(様子)なのです。

 

ですから他へ尋ねて行くとか行かないとか、言ってみたところで「どうしようもない」ように出来ているのです。


因果の道理7

2020年06月19日 | 法理

動くものを止めたら動くものがそれ限り無くなり、停止しているものが動き出すと停止していることが無くなるのです。

 

つまり「比較しよう」としても「何れも(動も止も)片付いてしまう」のです。

 

「比較の仕様が無いように」出来ているのです。

 

私たち衆生の「一々(一挙、一動、一言、一句)」が「縁」に触れて活動しているのです。

 

その「活動体(この物、六感)が一々皆そうなのです。

 

その事自体(今の事実)なのです。

 

他に有(在)るのではないのです。

 

それですから「因縁生」というのです。


因果の道理6

2020年06月18日 | 法理

私たち衆生のすべては比較しようとしても比較する余地はないのです。

「比較する」ということは「観念」です。

 

「実体の無い物」をとらえてそれを並べて「比較する」ということなのです。

 

「事実(今の事実)」は比較できないのです。

比較出来るものではないのです。

 

その事を本当に知(識)る必要があるのです。

その辺の所を覚者は「動を止むるに動なく、止を動するに止なし」と、はっきり証明しています。


因果の道理5

2020年06月17日 | 法理

ですから修行によって自分自身を見極めていく必要があるのです。

そうでないと「安心(仏教ではあんじんと読みます)」はあり得ません。

 

「すべてワンマンショーをしている」というのはそういうことです。

自分と自分以外のものを別にしてみると仏道の「道」には成りません。

 

「柳が緑に成る以前、花が紅に成る以前の状態」が必ず有(在)るということです。

そういう事を知(識)って頂かなければなりません。

 

全ては「因縁生(ものには実体が無い)」です。

因縁生は何処から来るのかというと、それは因縁生から出て因縁生で終わっているものなのです。

 

おシャカ様は人類で初めて「因縁生(ものには実体が無い)」に目醒められて全てに自由に成られたのです。

それを「法(道)」といい、その方の説かれた「法(道)」を「仏法(仏道)」と呼んでいるのです。

 

ですから「法(道)」は誰のものでもありません。

「因縁生に目醒められた人のもの」です。

 

迷いや不安の根源とは何か。

その事を解決するには「迷いや不安そのものに成ってみる」ことです。

 

それ以外に、迷いや不安を解消する方法はありません。


因果の道理4

2020年06月16日 | 法理

私たち衆生は自分を悩ましたり、困らせているのは何か自分以外のものから「縁」を与えられて、それによって腹を立てたり感情の起伏が激しくなっている、としか考えられないものです。

しかし、実はそういうものは全部、自分自身が作っているということなのです。

 

「因果一如」なのです。

ですから、自分自身が自分の問題として解決しない限りは絶対に怒りや善悪の心がなくなるものではありません。

自分で認めて、認めたものによって、自分自身がさまざまな感情を起こしているのです。


因果の道理3

2020年06月15日 | 法理

途中で飛んでしまいましたが「因果の道理2」2020/06/10の続きです。

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ところがその瞬間に「この花は余り美しくない」とか「この花はきれいだ」という「花を見たというそのままの対象物」とはまったく関係のないところに「分別心」を生じさせてしまうのです。

ですから「自分の問題」としてそういう「心」を起こしたということです。

 

そして、「この心」は目の前の「花(相手)」を取り除いても、自分の中に好きだ、嫌いだ、美しい、美しくないという「感情」になって何時までも残っているのです。


因果を考える4

2020年06月14日 | 法理

不生はいつまでも不滅です。

「不増不減」です。

 

死んだら死んだままに「宇宙」を占領しているのです。

波の出来るのは世界の水が高くなったので、波のなくなったのは世界の水に帰するのです。

 

「如」というお言葉があります

いつまでも変わらないのが「如」の真意です。

 

水なるものは、依然として存在しているのです。

 

「似たり」というお言葉の真意は、実体が無いことです。

これは「不滅」です。

 

滅して大海に帰するのです。

滅して「宇宙」に帰するのです。

 

「宇宙に帰する」というと、何だか帰する処があるように認めるようですが、元来帰する処は無いのです。

 

「そのものが宇宙」です。

帰する処が別に有(在)るのではありません。

 

始めよりすっかり「宇宙」を我々の全自己としているのです。


因果を考える3

2020年06月13日 | 法理

「宇宙」は働きです。

働きが出て来て千差万別になって来たものが「法(道)」です。

そこに小さなものが生まれたのではありません。

 

「宇宙」が来て小波となって押し上がった時、波というものが別に出来たのではありません。

 

波はいわゆる大海が風の縁に触れてただ高くなっただけです。

出来たのではありません。

 

波は無くなった処が何処へも行きはしません。

水は少しも殖えもしなければ減りもしないのです。

 

「不生不滅」です。

 

宇宙の因縁生に因って生じ、因縁滅に因って滅するのです。

生ずるのは因縁の生ずるにして実体の有(在)るものではありません。

 

滅するのは因縁の滅するにして実体があるのではありません。

 

実体が無ければ「宇宙」です。

皆「不滅」なのです。

 

生まれては生まれたままに「宇宙」を占領しているのです。


因果を考える2

2020年06月12日 | 法理

何故、因果を「撥無(はつむ・・・払い除きなくする)するか」というと、彼方の相手を認めるからです。

 

道歌に「何者が 最も苦し ものを隔てる 最も苦し」と。

 

宇宙は一つ物です。

この結果については、宇宙総がかりの縁が無ければ果は出来ないのです。

 

宇宙総がかりで太陽を始め、所在天体、所在地球上の事象が総合して初めて、我々の結果は出来ているのです。

それが分からないから何をやってもいいという、この事を聞き損ねるとそう成るのです。

 

その本来の本性に徹すれば悪い事は出来ないということを見て取らなければなりません。


因果を考える1

2020年06月11日 | 法理

この因あれば、この果がきっとあるのです。

我々はどうしてそういう物に成ったのか、必ずその因に因って来る処があるのです。

 

各々にその因があるのです。

そうしてその間に「宇宙」が皆、きているのです。

 

「縁」というものは「宇宙」です。

宇宙と共に因と縁と合わしてこの結果が生じているのです。

 

私たち衆生は何処から来たか、ここから来たのです。

 

ここから来たというのは「結果」です。

「結果」には必ず因があるのです。

 

因というものは仕舞ってあるものではありません。

因、その物が結果と成って来ているのです。

 

「因が結果」と名を変えて来ているだけなのです。

結果を見たら因は分かります。

 

そこで本当に因果が分かったならば、そういう因果を妨害することは出来るものではありません。