その結果「正邪(せいじゃ)、善悪、我他彼此(がたぴし)」の二元相対に終始して、「自我の思惑そのものにこれらの真相を求めて解決していかなければならない事を知(識)らず、答を神仏に委ねるか縁に任す以外にない」という結論を立ててしまうのです。
このことが問題の決定的な解決に至らないという現状にさえ無関心なのです。
「思惑は思惑そのものが実相、即、無相である」故に、思惑以外のものに因って解決を求めても到底不可能なのです。
その結果「正邪(せいじゃ)、善悪、我他彼此(がたぴし)」の二元相対に終始して、「自我の思惑そのものにこれらの真相を求めて解決していかなければならない事を知(識)らず、答を神仏に委ねるか縁に任す以外にない」という結論を立ててしまうのです。
このことが問題の決定的な解決に至らないという現状にさえ無関心なのです。
「思惑は思惑そのものが実相、即、無相である」故に、思惑以外のものに因って解決を求めても到底不可能なのです。