活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

仏の三不能2

2020年04月20日 | 法理

第二に「無縁を度すること能わず」 

 

縁の無い者は済度出来ないのです。

 

縁なき衆生は度し難しです。

 

第三に「生界(しょうかい)を尽くすこと能わず」 

 

生界とは私たち衆生の世界ということです。

 

現在の人類全員を残らず救い尽くすことは出来ないのです。

 

私たち衆生が自分の家を円満にしようと思ってもなかなか出来にくいのと同じ事です。

 

自分で自分の心さえも自分の自由には行かないものなのです。

 

何故ならば、この世は「娑婆世界(自分の思い通りにはならない世界)」だからです。


仏の三不能1

2020年04月19日 | 法理

「仏(おシャカ様を始めとして歴代の覚者方です)」にも三不能という三つの出来ないことがあるのです。

 

第一に「定業(じょうごう)を免るる能わず」 仏でも定まった業があって定業は免れないのです。

 

仏も提婆(だいば)のような者に苦しめられたり、「九悩(くのう)十業」といって九つの悩みと十の業報(ごっぽう)というものがあるのです。

 

善良な人で立派な人であるから災難には逢わないと思ってもそうはいかないのです。

 

災難にも出会わなければならないことがあるのです。


人法(にんぽう)2

2020年04月18日 | 法理

「人法(にんぽう)=空」というお言葉があります。

人法も空に成って始めて許される事です。

 

しかし、それでも「もともと人も法も空のものである」という事からいえば「今、空に成った」という事だけ間違いなのです、という事から此れも大きな「病」であるということを言わざるを得なくなるのです。

 

そういうのは全部「真常流注(しんじょう るちゅう)」です。

悟りという病、仏性という病、不知不識のうちに流れ出て来るのです。

 

「祇(只)管」【しかん】とか「このまま」というような事は全部「病気」なのです。

 

「無常」からいえば、そういうものにつかまれないはずです。

しかし、それがなかなか「自分のものに成らない」という事です。


人法(にんぽう)1

2020年04月17日 | 法理

「自分は全部空に成った、空じる事が出来た」という人がいます。

 

しかし、「自分だけが空に成ったけれども余所のものが邪魔になる」というような事はあってはならないはずです。

 

しかし、そういう事が事実として大変ある訳なのが現状なのです。

 

自分も「法」ならば自分の他に「法」があるはずがないので「法」も「空」に成らなければならないのです。


報恩と感謝3

2020年04月16日 | 法理

全てのものにはそれぞれ「法則」があります。

水は冷たい、火は熱いことのように「人間(にんげん)は人間の法則」を守って豊かな人間性を取り戻さなければなりません。

「法則」とは「戒」ということです。

 

この「戒」が一日でも無ければ世の中は暗黒です。

しかし、「戒」は有(在)るのですが守れないので世の中が乱れるのです。

 

「戒」を守って「本来の道(報恩と感謝)」に目醒める事が人間にとって一番大切なことであると思います。

 

しかし、余りにも知識を詰め込みすぎた現代人には、仏教もまた他の宗教も形だけのものになり過ぎてしまっています。


報恩と感謝2

2020年04月15日 | 法理

慈明和尚さんだけではありません。

その他の方々も皆、命がけで「法」を求めて来られたのです。

 

その人達のお陰で今日、私たち衆生は修行が出来るのです。

 

ですからそういう方々に対して「報恩と感謝」です。

此れは「修行の究極」です。

 

そういうものがないと、只 形通りの修行で済ませてしまうことに成り果てることになります。

 

自分自ら「法」を求めていく姿勢がないと「法」というものは分かりません。

 

全部「法のために」ということに置き換えていただいて精進していただきたいと思います。


報恩と感謝1

2020年04月14日 | 法理

修行の結果というのは「報恩と感謝」に尽きると思います。

それが修行の最終目的です。

 

どんなに立派な悟りを開いたとしても「報恩と感謝」がない限りは「菩提心の欠落」ということで独りよがりのものになってしまうということです。

 

どうか常日頃からご精進をしていただきたく思います。

 

慈明(じみょう)という和尚さんは、眠くなると錐で自分の股を刺して眠気を覚ましたということです。

 

そのようにして先達は「法」を求められたのですから、そういうお方があるために「法」というものが残っているということです。

 


信仰とは2

2020年04月13日 | 法理

「法(道)」教えは、おシャカ様や歴代の覚者に因って「此の様にして道を歩けば間違いなく有限相対の思惑が一向に邪魔にならなくなって、問題だと思っていたことが既に決定的な解決の中にあったことに気付くことが出来る」と証明されています。

 

ですから、おシャカ様や歴代の覚者の教えに素直に随って「道」を行じていけばよいのです。

 

「迷惑や葛藤や自我そのものも法であり、実相無相であることを信決定(しんけつじょう)」して日々の生活を営んでいけばよいのです。

 

そしておシャカ様や歴代の覚者の如くに「自ら自證(実證)」することが肝要です。

 

このように人の思惑を離れる道を信じることが「真の信仰」というべきです。


信仰とは1

2020年04月12日 | 法理

おシャカ様の教えでいうところの信仰とは「本当に信じる」ということです。

「自分自身を信じなさい」といわれてもなかなか自分自身が信じられないものです。

 

そこで神仏の力を借りて「自分の信仰が堅固な物になりますように」という祈りの意味をこめて「礼拝(仏教ではらいはいと読みます)供養」が行なわれる訳です。

 

阿弥陀仏を礼拝(らいはい)する時は「南無阿弥陀仏」とお称えします。

 

この意味は「南無阿弥陀仏」とお称えしている人が、「阿弥陀仏その物である事」を自らが自覚するために「南無阿弥陀仏」とお称えしているのです。

 

信仰の純粋な状態というのは、「疑いというものと同時に信も無くならなければいけない」のです。

 

何故ならば「信、疑」というのはあくまで「人の考えの中のもの」だからです。

 

そういう「信、疑」の無くなった状態を「法、道」といっているのです。


本当の救い

2020年04月11日 | 法理

「本当の救い」とは「仏法(仏道)」を知(識)れば、この教え以外にないと思います。

 

何故ならば、「一切の教え」というものは、今私たち衆生が「我見」を起こしている「私が」という観念で生きているその観念の上に出来た教えだからです。

 

自分で始末がつかないので「此の物」をどうにかしてくれるものはいないのかという教えを起こすのです。

 

そうすると自分より大きい物という観念を自分で生んでおいて、それをただ「神(ここでいう神とは欧米でいうところの神です)」と結びつけただけなのです。

 

ですからそれは「神に対しての信仰が足りない」というだけで、それでお仕舞いです。

 

「本当に神を信じるように」といわれても「本当、実物の神」を見ないのに無理な話です。

 

ところが仏法というものは「本当(実物)」を見たら信じるなといわれても、疑えといわれても疑えない教えなのです。

 

そういうところが「他の宗教」とは全く異なった教えであるということです。

 

そのくらい確かな教えです。

 

ですから、「理性の世界(欧米)」において「仏法(仏道)」が重要視されるのは当たり前なのです。