「法」には「不明という法」が有(在)ります。
「迷妄という法」も有(在)ります。
「不透明、不鮮明、不確実というようなモヤモヤしてはっきりしない法」もあります。
これらは全部間違いなく「自分自心の今の様子」です。
それを「平常心是道(へいじょうしんぜどう、びょうじょうしんぜどう)」といいます。
ところが「そういうものは自分の求めているものとは違う、仏道というものは高邁なものだ」とか、そのほか自分のイメージした「これこそ仏道だ」という考えをもって修行すると「心外に法を求める」ことになってしまいます。
求めれば求めるほど修行すれば修行するほど隔たりが出来て、自分は北に向かって歩いているつもりが南の方に進んでいたということになってしまいます。