しかし「平常心」というお言葉を聞く前は「平常心」ということを知(識)らなかったはずです。
知(識)らなかったという事は「分かる、分からない」に関係なく何時でも何処でも何をしていてもそういう状態に在ったという事なのです。
何時でも何処でも何をしていても「道」からはずれていない生活をしていたという事なのです。
「平常心」や「道」に意義付けや意味づけをしてはいけないのです。
おシャカ様や歴代の覚者といわれる方々は「平常心」をも離れることによって「覚者」なのであり、私たち衆生は「平常心」に拘束されることによって「衆生」なのです。