「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」は十劫(じゅうごう)
もの長い間坐禅をしたけれども仏法の真髄を究めることが
出来なかったという話も「心外無仏法(心外に法を求めた)」
だと言えましょう。
このように余るところなく欠けるところもないのが私たち衆生の
様子です。
このことがどうしても自分で納得が出来なければ、しばらく、
しばらく、です。
おシャカ様や歴代の覚者の教えに従って坐禅をし、しかるべき
指導者に「聞法(もんぽう)」をしなければならないのでは
ないでしょうか。
その究極に、「本来迷っていない」ということに気付くことが
修行の要諦です。