活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

曽って名を知らず1

2017年08月11日 | 法理

「曽(かっ)て名を知らず」とは、「此の物」は一体自分の

体を為すべきものでしょうか、「心」と為すべきものなので

しょうか。

 

実は、「此の物」はそういうものに関係はないのです。

 

従来の「体」と思われているもの、「心」と思われている

ものは皆、後から「人」が名目を付けただけのものです。

 

その名目にしがみついているので「真相(法、道、自己の様子、

今の事実等々)」が分からないのです。


迷悟の論量を透過す2

2017年08月10日 | 法理

「六根作(な)すこと無し」というお言葉がありますが、

六根のまんま、唯、開放しておけばよいのです。

 

それを、自分の見解をもって六根を使うと違って来るのです。

 

公私の分かれる処です。

 

鼻は鼻にまかせておけばよいのです。

よい香りがしようが、悪い香りがしようが、そういうことに

関係はないのです。

 

どちらも皆自分の法身(ほっしん)の消息です。

六根共に一つ一つあげてみればその通りなのです。

 

「六塵、六境」と名付けられているものが直ちに「六根の真相」

を最も明確に現わしているのです。


迷悟の論量を透過す1

2017年08月09日 | 法理

元来、此の物は悟ろうが迷おうがそういうことには関係なく

(人の論量には関係なく)きちんとしているのです。

 

此の物は迷悟の論量を透過しているのです。

 

迷っている凡夫が聞くのも、聖人、覚者が聞かれるのも、

なんにも変りはないのです。

 

同じことです。


それが同じでなかったならば、役に立ちません。

 

ですから、今までの人間(にんげん)の見解(けんげ)

というものを一度捨てる必要があるのです。

 

それを「万事(ばんじ)を休息する」といいます。


仕事三昧2

2017年08月08日 | 

仕事をしている時はチラッとでも、坐禅のことが浮かんだり

するということは間違いです。

 

それはあたかも、「頭上に頭を案ずるが如きもの」です。

 

「仕事そのものが禅である」ということですから、その上に

いろいろ覚えた禅を持ってくるということはあり得ないことです。

 

ですから、坐禅とか「仏道(仏法)」らしいものがチラチラと

自分の仕事に入り込んだら大きな仕事は出来ません。

 

「仕事三昧」に徹していただきたく思います。

 

そうでないと、「坐禅が坐禅に成らない」ということと

同じになります。


仕事三昧1

2017年08月07日 | 

静かに坐る時間「静中(じょうちゅう)の禅」が終わったら、

皆それぞれ自分の仕事を持っておられるので「仕事三昧」に

なっていただきたくおもいます。  

 

「三昧」ということは、坐禅と仕事と分けることは出来ません。

三昧なのですから、それで足りるわけです。

 

「頭上に頭を案ずる」という禅語がありますが、仕事(生活)

の中に坐禅を取り入れると、頭の上にもう一つ頭を重ねたような

結果になってしまいます。

 

ですから、本当に「仕事三昧(仕事の鬼)」になっていただきたく

思います。

 

「仏心(ほとけごころ)」を出してはいけないのです。

どこかに「仏心」というものが出ると、仕事の上に隙が出来る

ことになります。

 

どうか仕事三昧になって、一所懸命に努めていただきたいと

思います。


覚者のお言葉

2017年08月06日 | 法理

覚者の「そのまま」というお言葉は、「そのままのない状態」

を「そのまま」といっているのです。

 

ですから、道を求めている人が「そのまま」と受けとめている

のは、「そのままのある状態」なのです。

 

「そのままのある状態」とは「そのままを認めること、自分が

ある」ということです。

 

ものを認めるあるいはものがあるということは、「自分を認める

自分がある」ということです。


安心(あんじん)とは

2017年08月05日 | 仏教

「自己の正体」を見極めたら、もとより迷いや不安や不自由

であったということが、あるはずがないということが、ハッキリ

「自覚」されるのです。

 

これを「安心(仏教では”あんじん”と読みます)」と得たと

いうのです。

 

もし安心(あんじん)を得た以前に不安等の材料というものが

あって、修行によってそういうものが消滅したというのなら

それは間違いです。

 

「ただ」とか「安心(あんじん)」という状態は、「修行以前

のもの」です。

 

もし修行しなければ安心(あんじん)が得られないという

のならば、「ただ」とか「安心(あんじん)」という言葉は

出て来ません。


主人公

2017年08月04日 | 語録

「主人公」とは、自らに対する敬称です。

世の中の思想や宗教に右往左往して自らが自らの

「主人公」に成り切れないところに問題があります。

 

今迄の常識を一度すべて捨て去らないと、自らの

「主人公」は確率しません。

 

「他の者、他の言葉」に因って迷わされるということは

ありません。

自分が自分にだまされてはいけないということです。

 

ですから、聖典の中に真意を探り、言葉の意味を捉えても

無駄なのです。


戒律

2017年08月03日 | 仏教

おシャカ様が布教をしていた時分、段々と多くの人が

集まってきました。

 

その中には、色々な”クセ”を持った人があり、そういう

人達が弟子になったので、その度毎に必要に応じて

一つずつ戒律が設けられました。

 

集団で修行する上においては、修行者がお互いに迷惑を

かけることのないように、「これだけは注意して

いきましょう」という考えの元に戒律が生まれました。

 

かつて仏教が非常に栄えた国々では、現在この戒律だけが

守られています。

 

そして、その戒律を守っていくことがおシャカ様の精神を

そのまま行じているものだと、誤って理解されています。

 

しかし、この戒律も「修行」という中心がなければ何の

意味もなくなると思います。

 

おシャカ様の説く戒律は「仏教道徳」です。

 

「守らなければならないことを守る」とは、

「今の事実」に自らの考えで一切手を加えない

ことです。


万物流転3

2017年08月02日 | 法理

「万物流転(ばんぶつるてん)」は、現在の私たち衆生の

坐禅にも通じる話です。

 

坐禅をしている状態を自分で眺めて、

「ああ、今妄想が起きたな」とか、「よく坐れた」と、

いつも自分自身を点検している人がいます。

 

絶えず自分の坐禅の状態を知っている自分の存在に

気が付かないと、「坐禅は坐禅なり」になりません。

 

坐っている事実と坐っていることを知っている自分に

距離(隔て)があるために、坐禅になっていないことに

なります。

 

そういうことが、「二見相対(にけんそうたい)」の

「同伴者のいる坐禅」です。

 

このように「縁」と「自分」と離れて自分の状態をよく

知っているということは、あらゆる面において間違いで

あると、はっきり申し上げておきます。