「曽(かっ)て名を知らず」とは、「此の物」は一体自分の
体を為すべきものでしょうか、「心」と為すべきものなので
しょうか。
実は、「此の物」はそういうものに関係はないのです。
従来の「体」と思われているもの、「心」と思われている
ものは皆、後から「人」が名目を付けただけのものです。
その名目にしがみついているので「真相(法、道、自己の様子、
今の事実等々)」が分からないのです。
「曽(かっ)て名を知らず」とは、「此の物」は一体自分の
体を為すべきものでしょうか、「心」と為すべきものなので
しょうか。
実は、「此の物」はそういうものに関係はないのです。
従来の「体」と思われているもの、「心」と思われている
ものは皆、後から「人」が名目を付けただけのものです。
その名目にしがみついているので「真相(法、道、自己の様子、
今の事実等々)」が分からないのです。
「六根作(な)すこと無し」というお言葉がありますが、
六根のまんま、唯、開放しておけばよいのです。
それを、自分の見解をもって六根を使うと違って来るのです。
公私の分かれる処です。
鼻は鼻にまかせておけばよいのです。
よい香りがしようが、悪い香りがしようが、そういうことに
関係はないのです。
どちらも皆自分の法身(ほっしん)の消息です。
六根共に一つ一つあげてみればその通りなのです。
「六塵、六境」と名付けられているものが直ちに「六根の真相」
を最も明確に現わしているのです。
元来、此の物は悟ろうが迷おうがそういうことには関係なく
(人の論量には関係なく)きちんとしているのです。
此の物は迷悟の論量を透過しているのです。
迷っている凡夫が聞くのも、聖人、覚者が聞かれるのも、
なんにも変りはないのです。
同じことです。
それが同じでなかったならば、役に立ちません。
ですから、今までの人間(にんげん)の見解(けんげ)
というものを一度捨てる必要があるのです。
それを「万事(ばんじ)を休息する」といいます。
仕事をしている時はチラッとでも、坐禅のことが浮かんだり
するということは間違いです。
それはあたかも、「頭上に頭を案ずるが如きもの」です。
「仕事そのものが禅である」ということですから、その上に
いろいろ覚えた禅を持ってくるということはあり得ないことです。
ですから、坐禅とか「仏道(仏法)」らしいものがチラチラと
自分の仕事に入り込んだら大きな仕事は出来ません。
「仕事三昧」に徹していただきたく思います。
そうでないと、「坐禅が坐禅に成らない」ということと
同じになります。
静かに坐る時間「静中(じょうちゅう)の禅」が終わったら、
皆それぞれ自分の仕事を持っておられるので「仕事三昧」に
なっていただきたくおもいます。
「三昧」ということは、坐禅と仕事と分けることは出来ません。
三昧なのですから、それで足りるわけです。
「頭上に頭を案ずる」という禅語がありますが、仕事(生活)
の中に坐禅を取り入れると、頭の上にもう一つ頭を重ねたような
結果になってしまいます。
ですから、本当に「仕事三昧(仕事の鬼)」になっていただきたく
思います。
「仏心(ほとけごころ)」を出してはいけないのです。
どこかに「仏心」というものが出ると、仕事の上に隙が出来る
ことになります。
どうか仕事三昧になって、一所懸命に努めていただきたいと
思います。
覚者の「そのまま」というお言葉は、「そのままのない状態」
を「そのまま」といっているのです。
ですから、道を求めている人が「そのまま」と受けとめている
のは、「そのままのある状態」なのです。
「そのままのある状態」とは「そのままを認めること、自分が
ある」ということです。
ものを認めるあるいはものがあるということは、「自分を認める
自分がある」ということです。
「自己の正体」を見極めたら、もとより迷いや不安や不自由
であったということが、あるはずがないということが、ハッキリ
「自覚」されるのです。
これを「安心(仏教では”あんじん”と読みます)」と得たと
いうのです。
もし安心(あんじん)を得た以前に不安等の材料というものが
あって、修行によってそういうものが消滅したというのなら
それは間違いです。
「ただ」とか「安心(あんじん)」という状態は、「修行以前
のもの」です。
もし修行しなければ安心(あんじん)が得られないという
のならば、「ただ」とか「安心(あんじん)」という言葉は
出て来ません。
「主人公」とは、自らに対する敬称です。
世の中の思想や宗教に右往左往して自らが自らの
「主人公」に成り切れないところに問題があります。
今迄の常識を一度すべて捨て去らないと、自らの
「主人公」は確率しません。
「他の者、他の言葉」に因って迷わされるということは
ありません。
自分が自分にだまされてはいけないということです。
ですから、聖典の中に真意を探り、言葉の意味を捉えても
無駄なのです。
おシャカ様が布教をしていた時分、段々と多くの人が
集まってきました。
その中には、色々な”クセ”を持った人があり、そういう
人達が弟子になったので、その度毎に必要に応じて
一つずつ戒律が設けられました。
集団で修行する上においては、修行者がお互いに迷惑を
かけることのないように、「これだけは注意して
いきましょう」という考えの元に戒律が生まれました。
かつて仏教が非常に栄えた国々では、現在この戒律だけが
守られています。
そして、その戒律を守っていくことがおシャカ様の精神を
そのまま行じているものだと、誤って理解されています。
しかし、この戒律も「修行」という中心がなければ何の
意味もなくなると思います。
おシャカ様の説く戒律は「仏教道徳」です。
「守らなければならないことを守る」とは、
「今の事実」に自らの考えで一切手を加えない
ことです。
「万物流転(ばんぶつるてん)」は、現在の私たち衆生の
坐禅にも通じる話です。
坐禅をしている状態を自分で眺めて、
「ああ、今妄想が起きたな」とか、「よく坐れた」と、
いつも自分自身を点検している人がいます。
絶えず自分の坐禅の状態を知っている自分の存在に
気が付かないと、「坐禅は坐禅なり」になりません。
坐っている事実と坐っていることを知っている自分に
距離(隔て)があるために、坐禅になっていないことに
なります。
そういうことが、「二見相対(にけんそうたい)」の
「同伴者のいる坐禅」です。
このように「縁」と「自分」と離れて自分の状態をよく
知っているということは、あらゆる面において間違いで
あると、はっきり申し上げておきます。