曽って名を知らず2 2017年08月12日 | 法理 実際に自分の六根と六塵(六境)といわれているものの 必然性は人の知(識)らないうちに必ず「一如」になら なければならないようになっているのです。 「一如」でなければ動かれないように成っているのです。 そのことは、どんなに考えを費やしてみても推測の及ぶべき ものではないのです。 「此の物」はそういうものの手のつくべきものではないのです。 « 曽って名を知らず1 | トップ | 天真にして妙なり1 »
コメントを投稿 ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する