私たち衆生は、おシャカ様が法を説いた教えの道理を学ぶ
ことにより、迷いや葛藤の根源が自我の思惑への執着にあった
ことに気が付くことが出来ますが、ただ道理を学んだから
といって、自我の思惑の本質を見性したというわけでは
ありません。
「自我」の言葉を耳にすれば直ちに善悪の二見が生じて、
「自我は悪いものだから、無心にならなければいけない」
とか、「我執を超えた神仏は尊いものだ」などと思惑を
起こすのが世の常です。
私たち衆生は、おシャカ様が法を説いた教えの道理を学ぶ
ことにより、迷いや葛藤の根源が自我の思惑への執着にあった
ことに気が付くことが出来ますが、ただ道理を学んだから
といって、自我の思惑の本質を見性したというわけでは
ありません。
「自我」の言葉を耳にすれば直ちに善悪の二見が生じて、
「自我は悪いものだから、無心にならなければいけない」
とか、「我執を超えた神仏は尊いものだ」などと思惑を
起こすのが世の常です。