活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

四恩

2017年07月21日 | 仏教

「四恩」とは、私たち衆生の住んでいる国土の恩、

父母の恩、すべての衆生の恩、仏法僧の三宝(さんぼう)

の恩をいいます。

 

「恩」とは平等ということです。

 

出家在家を問わず私たち衆生は、すべて「四恩」によって

生まれ、「四恩」によって「法(道)」を聞くことが出来る

のです。

 

中でも、衆生の恩は非常に大きく、この頃のように世界が

狭くなってくると国の内外を問わず衆生の恩を非常に身近に

感じる次第です。

 

おシャカ様の教えには「汝の敵を愛せ」ということは

ありません。

 

「敵はない」というのがおシャカ様の本来の教えです。

 

何故ならば、目の前の全てのものは、自分自身の形の

変わったものだからです。

 

敵の認めようがないのです。

 

これを「自他不二(じたふに)」と言っています。


人人具足箇箇円成3

2017年07月20日 | 語録

どうしても止むを得ないことですが、仏道あるいは

禅を少しの間「手段・方法」として借りて修行して

いく以外にないのです。

 

そして、「成る程、確かにそうだった」とうなずか

なければ自分自身で納得することは出来ないわけです。

 

「御心」は紛れもなく自分自身の中にあることです

から、どこかに隠された遠い世界にあるものを、

新しく求めるということではありません。

 

修し、證することによって、己に足りて他に待つ

事のない自分であったということに気が付くという

ことです。


人人具足箇箇円成2

2017年07月19日 | 語録

「人人具足箇箇円成」ということですが、

「実相は無相なり、不知不識生なり、本来成仏なり」

ということは、たしかに「法」としては、そうでなければ

ならないというのは「理(理論)」としてはよく分かりますが、

「人(にん)」としてはどうしても「分かっている」という

ものが残っていて邪魔をするということです。

 

これを「事(事実)」といいます。

 

道元禅師のお言葉を拝借すれば、

「修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし」

ということなのです。

 


人人具足箇箇円成1

2017年07月18日 | 語録

「人人具足箇箇円成(にんにんぐそく ここえんじょう)」

とは、それぞれの人、様々な状態である私たち衆生の有様

をいいます。

 

おシャカ様の御心が紛れもなく私たち衆生そのものである

ということなのです。

 

お経の中に、

「仏身は法界(ほっかい)に充満し、普く一切群生

(ぐんじょう)の前に現ず、縁に随い、感に赴いて

周(あま)ねからずということ無し、而も常にこの

菩提座に處し玉う」

というお言葉があります。

 

すでに私たち衆生は、おシャカ様の御心を皆具えて

いるのです。

 

「御心」そのものである自分に気が付くことです。

 

ここでは、私たち衆生が既に持っているもの、欠ける

ことなく、余ることもない状態の自分の様子(仏身)

をいっているのです。


応無所住而生其心2

2017年07月17日 | 語録

坐禅をする時に、不生不滅、空、あるいは無という城壁を

つくってしまって「不生不滅、空、あるいは無にならなけば

ならない」というものに陥らないようにしないといけません。

 

坐禅をすれば確かに楽にもなりますし、すっきりもするでしょうし、

静かにもなるはずですが、しかし、それは自分のつくったものです。

本はそういうものはありません。

 

禅」を知(識)らない時、「法」を知(識)らない時、

というのは、そのようなものはあるはずがなく、一所懸命に

そのことそのことを知(識)らずに行っていたはずです。

 

そうでないと、「残り物がある」ことになります。


応無所住而生其心1

2017年07月16日 | 語録

「金剛経」の一節に「応無所住而生其心(おうむしょじゅう

にしょうごしん)〈まさに住する所なくして しかも その心を生ず〉

という一文があります。

 

生じるところも、滅するところもなく、縁に触れてものが生じる

ということです。

 

「心と肉体とが別になる」という考え方の人が多いですが、

思った時は思いそのものだけなのです。

 

心とか肉体というものは考えられません。

思いそのものだけということです。

 

しかし、そこに「人の介在がある」と思いが思いだけで

済まされないのです。

 

善いとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そういう意識が

付着することになるのです。


一念三千

2017年07月15日 | 仏教

無常ということは、非常にありがたいことです。

「一念三千(いちねん さんぜん)」といって、一念の上に

三千回もの移り変わりがあると言われています。

 

ですから、積んでは壊しを行きつ戻りつしていることは、

決して無駄なことではありません。

 

それが、そのまま仏道ということなのです。

それを無駄にせず行きつ戻りつということを、たゆまず

務めることです。

 

「つまらないことをやっている」という気を起こさず、

これも「仏道を成就するためにひとつの修行(功夫)だ」

というふうに考えて務めて頂きたく思います。

 

たえず、「自分の求むべきものは、自分のありようなのだ」

と、いつもしっかり持っていないと、いろんな「縁」が

素通りして行くことになります。


大通智勝仏

2017年07月14日 | 

「大通智勝仏(だいつう ちしょうぶつ)」という仏様は、

長い間一所懸命にお坐りになられましたが、「どうしても

仏道を成就することが出来なかった」というお話があります。

 

何故そうだったかというと、「今のほかに仏道を求めた」

からです。

 

「坐禅が手続きや手段方法」になったからです。

 

「坐禅は坐禅なり」。

そうなるように務めていただかなければなりません。

 

「今です。今出来ないとまた次の瞬間も出来ない」という

ことになります。

 

「今、今です」。


前後を見ずに徹底して務めて頂きたいと思います。

もう、それだけなのです。


銘記4

2017年07月13日 | 

「百尺竿頭(ひゃくしゃく かんとう)一歩を進めば、

十方世界に全身を現ず」と。

 

「実(まこと)」に然りです。

 

先般、「衆生について2」で論考しましたが、

「心仏及衆生是三無差別(しんぶつぎゅうしゅじょう

ぜさんむしゃべつ)にして同質のものです。

 

同質を実証」すれば、即ち「衆生本来仏なるなり」です。

 

新三法印「実相無相、不知不識生、本来成仏」です。


銘記3

2017年07月12日 | 

「山河(さんが)大地の為に身を惜しまざれば、山河大地

爾が為に法を惜しまず」とも。

 

「実(まこと)」に行えばよいのです。

外に方法も手段もありません。

 

「煩悩即菩提」なのです。

 

二つ有るのではありません。

一つものを自ら離したのみです。

 

離れ様のないものを強いて離したのです。

「離した主」は「人の思い」です。

 

おシャカ様や歴代の覚者は「法(道)」を難しくしたのでは

ありません。

 

私たち衆生が自らが抱く所なのです。

「直下(じきげ)」に「放下(ほうげ)」すればよいのです。