私たち衆生は「法」から外れたところで生活している人は一人もいません。
「法の真っ只中」にありながら、「法」が見えないということなのです。
そういうことを 「潜行」 というお言葉で形容しています。
大きな自分に成れるという結果が現れないということは
「潜行密用」 が足らないし、「愚のごとく魯のごとし」 が行われていないからです。
どこかに自分という介在をしているからです。
今の世の中、真面目な修行をすればするほど、なんとなく 「馬鹿」 にされたり、
からかわれたりするものです。
そういう時代のなかで 「祇管(ひたすら)」 に黙々として
「潜行密用は愚のごとく魯のごとし」
ということは大変なことです。
しかし、誰か後を継いでいってもらわないとなりません。
禅語で 「馬鹿」 とは、「不喞溜漢(ふしつりゅう の かん)」 といっています。
「馬鹿に成る」 というのは、妄想、煩悩がなくなるということです。