「坐禅を志す人」 は、今まで色々な事を問題にしていたと思います。
そして、そういうものを皆なくしてしまうのだと思っていることでしょう。
「修行」 というと大抵そんなことを考えていると思います。
それだから、「無念無想」 などという 「木石(ぼくせき)」 の如くなる事と思うのです。
「無念無想」 というものは、そういうものではありません。
内からも外からもどのようなことがあっても、「総ての物はあるがままの存在」 で
人間(にんげん)の為にあるのではないのです。
「唯 其の物の活動」 なのです。
この身体でも精神作用でも私たち衆生の考えているような、「私が」 と思う
自分の為に存在しているのではないのです。
其の作用を 「無念無想」 というのです。
「私」 という 「錯覚」 を起こして不知不識に 「私が」 と思い込んで迷っているのです。
これを 「顚倒夢想(てんどう むそう)」 と言っています。
しかしながら、実は聞こうと思ったから聞こえるのではなく
「人と環境(六根と六境)」 との必然性なのです。