活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

坐禅を志す人へ2

2016年05月06日 | 坐禅

それですから、「私」 というものがあるのではないのです。

「私が聞いている」 ということはないのです。

「唯 聞こえている」 のです。

 

「此の物(身体)」 は自分を離れた活動者なのです。

 

そのように、自分の凡てのものを親しく観ると、それがハッキリします。

そこで凡ての迷いが取れるので、当然 「坐禅をする」 ということが

必要になるのです。

 

「坐禅を志す人」 は 「無念無想に成る」 ことです。

「無念無想」 とは、思いを問題にしないで

「思うことを捨てておく(取り上げない)」 ことです。

 

そうすると全体に凡ての作用というものは、私たち衆生の考えているような

そうした観念的なものではなくて、「本質的無我なもの」 であることがわかります。

 

本質的に自由なものであり、この無我なる自分を因として、

物と物乍らに決まりのないもの同士が 「縁」 に触れ合うところから

一切のことは始まるのです。