「此の物(自分自身)」 は 「空」 のようなもので、何もない処と同じです。
「此の物(自分自身)」 は全く 「自我」 のないものです。
「何も知(識)らない」 のです。
何も知(識)らないのに、話せば聞こえて、前のことが無くなって
いくらでも無限に展開します。
「此の物(自分自身)」 は限りない活動者なのです。
そういう 「自分の本質」 というものが 「今の事実(様子)」 なのです。しかも、
「円(まどか)なること太虚(たいきょ)に同じ、欠くることなく余ることなし」
とのお示しがあります。
如何なる大きな景色でも一飲みにし、如何なる針のような小さな世界にでも
容易と生活(活動)が出来るのです。
それが、私たち衆生の 「自己の様子」 なのです。
どうしてそうならなくてはならないのでしょうか。
しかも小さいものにも、大きなものにも一つに成って少しもずれが無いということです。
何時も 「実質的」 にきちんとした生活(活動)が誰にでも出来ているのです。
それが 「今の私たち衆生の本来の姿」です。
これを得るには 「坐禅」 に依る外はありません。
これが、「おシャカ様の智慧」 です。