先般、「馬鹿の出拠」 で 「馬鹿」 について論及しましたが、宝鏡三昧に、
「潜行密用は愚のごとく魯のごとし、ただよく相続するを主中の主と名づく」
とあります。
相続が難しいのです。
時として境にひきつけられ、寝ても覚めても同じというわけにはいきません。
「魔」 がひそかにつけ入るすきをねらっているものですし、逆境にでも逢うと
平生の意気も、守って変えない志も何所吹く風になってしまうものです。
これらは、「馬鹿の修行」 が十分でない證拠なのです。
「潜行」 とは、「不露」 ということです。
際立たないということです。
一体何をしているのか分からないということです。
「修行の臭み」 がないということです。
「凡とも聖(しょう)とも」 分からないのです。
「密用」 は 「不覚」 です。
「悟り」 を忘れてしまうのです。
作用(しごと)に行き詰まることがない、追い払うものがないということです。
「この馬鹿さ加減」は、自修するよりほかはありません。
「山上 更に山あり」 を知って頂きたいところです。