活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

精進料理とは

2016年05月21日 | 仏教

「精進料理」とは、大根とか人参とかカボチャという物を使うから精進で、

肉や魚は不精進ということではありません。


野菜は煮含めなければいい味が出ません。

焼いたり和えたり、いかに美味しい物を作るかということに

「一所懸命精進をする」 から 「精進料理」と名付けられたのです。


知(識)るということ

2016年05月20日 | 法理

ある人のお言葉です。

「私は日本人をよく知(識)っています」 と。

 

これは 「道」 の上において間違いやすい事ですが

「ものを知(識)る」ということは、ものを「知(識)っている」だけ

隔てがあるということです。

 

「分かる」 「理解する」 というようなことも、本来からいえば

それだけ余分なことです。

 

「知(識)る」 ということが、「迷い」 の一つだということを知ってもらいたいところです。

又、知(識)っているだけ、まだそのものに成り切れていないということです。

 

私たち衆生は、息をしても息をしているということは誰も知(識)りません。

私たち衆生は 「道の真っ只中」 にいるということです。


「道」 から外れたところで生活(活動)している人は一人もいないのです。

「今は何時でも今」 です。


「今の事実」 をはっきり自分のものにすることです。

これは知(識)ることではありません。



坐禅の修行 2

2016年05月19日 | 坐禅

本当の自己(因縁生)を見極め、実証するには、

自分に対する執着(我見、自我の迷執)を離れなければなりません。

 

そのための 「坐禅」 ですので、いつまでも 「自分が基準」 になって、

思ったり、考えたりしていては大変な矛盾をおかすことになります。

 

それで、不知不識(しらずしらず)のうちに方向を誤らない様に

ということから、「仏道」 というものが設けられました。

 

ですから、どうしても 「仏道」 というものを借りて、「道」 を歩いて

自分の考え等を捨てていく必要があるのです。

 

それが 「坐禅の修行(道)」 です。


坐禅の修行 1

2016年05月18日 | 坐禅

「今の状態」 が 「将来の結果」 になります。


「今の状態」 が本当に満足のいくものでなかったら、「この状態」 は

「十分後」 も 「十年後」 も、そして 「百年後」 も同じ状態の繰り返しになります。


「今」 無明を破らなかったら、破る時は無いのです。

「持ち時間、根気」 というものは、いつでもたっぷりあるものではありません。


私たち衆生は、今、劇的な変動の中で生活しています。


迷い、不安、葛藤、孤独の状態の中で生活しながらも、それが邪魔に

ならないように、そういうものを 「活かして生きる」 ように修行していくことが

「坐禅の修行」 なのです。


実相(無相)の姿

2016年05月17日 | 坐禅

「坐禅」 は 「実相(無相)」 の姿です。

自我を無にした証拠です。

 

経論が空論でないことを 「実証」 したものが 「坐禅」 です。

ですから、「坐禅」 というものを借りて、坐禅と一如に成る事によって

「実相は無相である」 ということを 「実証」 していくことが可能なのです。


「坐禅が実相(無相)の姿である」 ということは、「坐禅」 を「坐禅」 によって

徹底して削ぎ落として、始めてそこに現われることです。


「自己を忘じなければ」、決して 「坐禅」 が 「実相(無相)の姿」

だということはわかりません。


「実相(無相)の姿」 がわからなければ、「無明」 とか 「迷い」 の中に

入っても、それが全く邪魔にならないような 「大安心(だいあんじん)」

の境涯を得る事は出来ません。、


言葉のとらえ方

2016年05月16日 | 仏教

「野郎」 とは、男性をののしった語です。

特に 「この野郎」 とか 「野郎呼ばわり」 されますと腹を立てるものです。

 

「この野郎(コノヤロウ)」 を分析してみると、何もないのです。

「コ」 と言う時には未だ 「ノ」 は来ていません。

 

「ノ」 と言う時には 「コ」 は消えてなくなっています。

「コノヤ」 と言う時には、「コノ」 は消えています。

「コノヤロウ」 という凝り塊りがないのです。

 

これを、「空」 と言います。

声ばかりで 「即生即滅(そくしょう そくめつ)」 ではありませんか。

「この野郎」 という塊った時間はないのです。

よく 「分析」 してみて下さい。


「この野郎」 ということは、「南無阿弥陀仏」 と言うことと同じではありませんか。

「阿(あ)」 という時には 「弥(み)」 と言う字はありません。


「この野郎」 ということが私たち衆生に解らないから腹をたてるのです。

一つ一つこれを「分析」してみて下さい。


その間に多少の時間、必ず 「時の経過」 というものがあります。

「阿弥陀(あみだ)」 も塊ったものがあるのではないのです。


「阿弥陀仏」 のことを、「尽十方無碍光如来(じんじっぽう むげこうにょらい)」

と、申すではありませんか。


「怒りは短き狂気なり」 という諺があります。

一つのものがあたかも鏡に出て向こうの姿になっているということが解れば、

何を相手に私たち衆生は腹を立てるのでしょうか。


本来は、腹の立てようがないのです。

然し、怒るべきことを忍んで怒らない、というのは仏教ではありません。


「腹の立つ」 のを 「堪忍」 するとは、仏教では言わないのです。

それは心理学者の言うことです。

仏教では全く一つのものだから始めから腹の立てようがないのです。


努力 3

2016年05月15日 | 

努力によって永久の生命が得られ、無我の真理の證明が出来るのです。

これが「大説法」です。

 

先般申し上げました通り、「己れ無き時己れならざるはなし」 なのです。

いつでも宇宙と共にあるのです。

 

先きに、「成功の定義」として、成功はいつでも同分量なのです。

「成功」 は時と所と位(くらい)によって変わってはいけないのです。

変化するものではないのです。

「永久成らざる可からず」 なのです。


この 「三つの条件(同量・不変・永久)」 が努力の瞬間に発見されるのです。


私たち衆生は、「努力」 に於ける 「瞬間の真意義」 を了得し、この人生をして

「はかなき成功」 より、免れて意義のある人生にしたいものです。


これが、私たち衆生が世に生まれて来た 「必然の目的」 ではないでしょうか。


古人曰く、

“失望することなかれ、失望することなかれ、失望は必ず病人の夢なるべし”

と。


また曰く、

“努力せよ、努力せよ、努力して得ざるは困窮のみ”

と。


努力 2

2016年05月14日 | 

百丈(ひゃくじょう)和尚というお方は、行持が厳格でした。

その百丈和尚が老体になられたので、弟子達がそのお身体を心配し

ある時、作務に出る鍬や鎌をかくしてしまいました。

 

そのために、百丈和尚は作務に出ることが出来なくなって

その日から食事の時になっても飯台の前に出て来なくなってしまいました。

 

それが、毎日のようになってしまったもので、弟子達が百丈和尚の室に行って

尋ねると、「一日なさざれば一日食わず」 という一語を以て答えとされたのでした。

 

そこで弟子達は翌日から隠していた鍬や鎌を出しておくと、百丈和尚は

それを持って大衆(だいしゅ)と一所に作務をやり、飯台に着座して飯を喫すること

常の如くであったそうです。

 

私たち衆生は 「努力」 にかくの如きの価値あることを発見したなら

楽しんで 「業(ごう)」 につくことができます。

 

社会へ行くのは恰も 「極楽浄土」 へいくようなものではないでしょうか。

 

 


努力 1

2016年05月13日 | 

古人曰く、「己れ無き時、己れなさざるはなし」 と。


この意味は、努力の瞬間に己れそのものが宇宙全体に行き渡り

全自己となって現成(げんじょう)するということです。

 

実に大きな自己ではないでしょうか。大きな成功ではないでしょうか。

別の言葉で言えば、

「我れ一なれば、他の九は一に包容される」

ということです。

 

「我れ二なれば、他の八は二に包容される」

ということです。

 

いつも分量は同じなのです。

これが即ち 「無我の価」 なのです。

努力によって己れを忘ぜるものの価なのです。

 

このことが 「成功の真意義」 なのです。

努力そのものの価がわかったら、努力そのものによって人生の目的も立ち

人間(にんげん)の権利義務も果たし得られるのです。

 

生産力即ち能率が増し、世を救って罪より免れることが出来るのは

ただ、この努力のみなのです。

 

「道は近きにあり、しかもこれを遠きに求む」 ではいけないのです。


実証 3

2016年05月12日 | 法理

・ 自分で 「実証」 出来るということは、「法」 というものが確かに間違いないもの

  という事を自分自身で証明できるということです。


・ 分かる分からないの問題ではありません。

  自分が本当に素直に空に成ってさえいればきちんと 「実証」 出来るのです。


・ おシャカ様の 「法」 が本当に正しいものだと証明(実証)するのは自分自身です。


・ 修行するということは、修行によって修行を完全に忘れ尽くすという、

  このことの為に修行をするのです。


・ 「今」 をはっきり自分のものにする、知るのではありません。


・ 弟子(参禅者)は、師匠(指導者)を証明し、師匠(指導者)は、弟子(参禅者)を

  証明(印可)するのです。    これは「禅」の特色です。


・ 本当に 「嗣法(しほう)」 するということは、すべてのものが 「空」 に成ったということ、

  「無」 に成ったということです。


・ 「法」 はどこにでもあるけれども、どこにでもないものです。

  だから自分のものにしなければ、どうすることも出来ません。