活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

言葉のとらえ方

2016年05月16日 | 仏教

「野郎」 とは、男性をののしった語です。

特に 「この野郎」 とか 「野郎呼ばわり」 されますと腹を立てるものです。

 

「この野郎(コノヤロウ)」 を分析してみると、何もないのです。

「コ」 と言う時には未だ 「ノ」 は来ていません。

 

「ノ」 と言う時には 「コ」 は消えてなくなっています。

「コノヤ」 と言う時には、「コノ」 は消えています。

「コノヤロウ」 という凝り塊りがないのです。

 

これを、「空」 と言います。

声ばかりで 「即生即滅(そくしょう そくめつ)」 ではありませんか。

「この野郎」 という塊った時間はないのです。

よく 「分析」 してみて下さい。


「この野郎」 ということは、「南無阿弥陀仏」 と言うことと同じではありませんか。

「阿(あ)」 という時には 「弥(み)」 と言う字はありません。


「この野郎」 ということが私たち衆生に解らないから腹をたてるのです。

一つ一つこれを「分析」してみて下さい。


その間に多少の時間、必ず 「時の経過」 というものがあります。

「阿弥陀(あみだ)」 も塊ったものがあるのではないのです。


「阿弥陀仏」 のことを、「尽十方無碍光如来(じんじっぽう むげこうにょらい)」

と、申すではありませんか。


「怒りは短き狂気なり」 という諺があります。

一つのものがあたかも鏡に出て向こうの姿になっているということが解れば、

何を相手に私たち衆生は腹を立てるのでしょうか。


本来は、腹の立てようがないのです。

然し、怒るべきことを忍んで怒らない、というのは仏教ではありません。


「腹の立つ」 のを 「堪忍」 するとは、仏教では言わないのです。

それは心理学者の言うことです。

仏教では全く一つのものだから始めから腹の立てようがないのです。