どんな状態でも総て「道」ならば、何故敢えて「道」を求めなければならないのかと、疑問に思うかもしれません。
「自然 (しぜん) 」に出てくるものは総て「道」ではないかと思うものです。
しかし、「自然 (しぜん)」という事で、もうすでに人間 (にんげん) 的考えなのです。
前にも詳細に記述しましたが、仏教では “人が生じる以前” “人の認める以前” の自ずから道理にかなっている事を「自然 (じねん)」といっています。
又、何でも「道」なのだから修行 (今の事実に徹する) しなくてもいいじゃないかと思うかもしれません。
しかし、ないものをあると錯覚を起こしているからこそ「目醒める事」が必要なのです。
例えば、動物でも「道の真っ只中」で生活を営んでいますが、「道」に目醒める事は出来ません。
総てが「道」であるという事は「覚者」でなければわからない事です。
「目醒める必要なんかいらないじゃないか」と、自分で決めてしまえば、それが「我見」というものなのです。
「我見」でもって、自分の方向を定めているではないですか。
しかし、「我見」がなければ「目醒める事」は出来ないのも真実です。
問題は人の言葉の中で修行 (今の事実に徹する) していくのではなくて、地に足がついた、自分の問題として考えるようにしてもらいたいのです。
おシャカ様を始め、覚者の中に真意を探り、言葉を捉えても無駄な事です。
自己の問題に徹する事が中々出来ないのは、自己以外のところに解決を求めているからです。
問題意識それ自体が「道」であると承知してもらいたいのです。
要は、問題意識だけになって、考えて考えて、考え尽くす位に考えてもらいたいのです。
何故ならば、「覚者の道」は「私達の道」ではないからです。
「道」は、我無くては成らず、在っては成らない道理なのです。
精神世界ランキング
「自然 (しぜん) 」に出てくるものは総て「道」ではないかと思うものです。
しかし、「自然 (しぜん)」という事で、もうすでに人間 (にんげん) 的考えなのです。
前にも詳細に記述しましたが、仏教では “人が生じる以前” “人の認める以前” の自ずから道理にかなっている事を「自然 (じねん)」といっています。
又、何でも「道」なのだから修行 (今の事実に徹する) しなくてもいいじゃないかと思うかもしれません。
しかし、ないものをあると錯覚を起こしているからこそ「目醒める事」が必要なのです。
例えば、動物でも「道の真っ只中」で生活を営んでいますが、「道」に目醒める事は出来ません。
総てが「道」であるという事は「覚者」でなければわからない事です。
「目醒める必要なんかいらないじゃないか」と、自分で決めてしまえば、それが「我見」というものなのです。
「我見」でもって、自分の方向を定めているではないですか。
しかし、「我見」がなければ「目醒める事」は出来ないのも真実です。
問題は人の言葉の中で修行 (今の事実に徹する) していくのではなくて、地に足がついた、自分の問題として考えるようにしてもらいたいのです。
おシャカ様を始め、覚者の中に真意を探り、言葉を捉えても無駄な事です。
自己の問題に徹する事が中々出来ないのは、自己以外のところに解決を求めているからです。
問題意識それ自体が「道」であると承知してもらいたいのです。
要は、問題意識だけになって、考えて考えて、考え尽くす位に考えてもらいたいのです。
何故ならば、「覚者の道」は「私達の道」ではないからです。
「道」は、我無くては成らず、在っては成らない道理なのです。
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