活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

自分の問題

2015年06月13日 | 法理
どんな状態でも総て「道」ならば、何故敢えて「道」を求めなければならないのかと、疑問に思うかもしれません。

「自然 (しぜん) 」に出てくるものは総て「道」ではないかと思うものです。

しかし、「自然 (しぜん)」という事で、もうすでに人間 (にんげん) 的考えなのです。


前にも詳細に記述しましたが、仏教では “人が生じる以前” “人の認める以前” の自ずから道理にかなっている事を「自然 (じねん)」といっています。


又、何でも「道」なのだから修行 (今の事実に徹する) しなくてもいいじゃないかと思うかもしれません。

しかし、ないものをあると錯覚を起こしているからこそ「目醒める事」が必要なのです。

例えば、動物でも「道の真っ只中」で生活を営んでいますが、「道」に目醒める事は出来ません。


総てが「道」であるという事は「覚者」でなければわからない事です。

「目醒める必要なんかいらないじゃないか」と、自分で決めてしまえば、それが「我見」というものなのです。


「我見」でもって、自分の方向を定めているではないですか。

しかし、「我見」がなければ「目醒める事」は出来ないのも真実です。


問題は人の言葉の中で修行 (今の事実に徹する) していくのではなくて、地に足がついた、自分の問題として考えるようにしてもらいたいのです。

おシャカ様を始め、覚者の中に真意を探り、言葉を捉えても無駄な事です。


自己の問題に徹する事が中々出来ないのは、自己以外のところに解決を求めているからです。

問題意識それ自体が「道」であると承知してもらいたいのです。


要は、問題意識だけになって、考えて考えて、考え尽くす位に考えてもらいたいのです。

何故ならば、「覚者の道」は「私達の道」ではないからです。

「道」は、我無くては成らず、在っては成らない道理なのです。






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