私達衆生には、本来 自我というものは在りません。
自分がものを思っているのではありません。
思ったら思った時のものだけなのです。
同時に二つの事を思う事は出来ません。
【今までの思いがなくなった時は、全部自分が生まれ変わっている】という状態なのです。
人でも物でも皆いつも新しく生まれ変わっているというのが、おシャカ様の考えです。
そういう状態を「ありのまま」といっています。
ですから、分別を用いるのではなく分別のままに、善悪を推し量るのではなく判断するままが「ありのまま」の状態なのです。
修行 (今の事実に徹する) とは、「今」やらなければならない事を、一所懸命になってやる、それしかありません。
「今」のままになって、考えながら行動しているわけですから、そのままになって、己見を交えずに、ひたすらに成りきっていかなければならないのです。
自分がものを思っているのではありません。
思ったら思った時のものだけなのです。
同時に二つの事を思う事は出来ません。
【今までの思いがなくなった時は、全部自分が生まれ変わっている】という状態なのです。
人でも物でも皆いつも新しく生まれ変わっているというのが、おシャカ様の考えです。
そういう状態を「ありのまま」といっています。
ですから、分別を用いるのではなく分別のままに、善悪を推し量るのではなく判断するままが「ありのまま」の状態なのです。
修行 (今の事実に徹する) とは、「今」やらなければならない事を、一所懸命になってやる、それしかありません。
「今」のままになって、考えながら行動しているわけですから、そのままになって、己見を交えずに、ひたすらに成りきっていかなければならないのです。