そこで、指導者はそれぞれの働きのままにしておく指導をしている訳です。
自分の取り計らいさえ用いなければ、綺麗なものも汚いものも、見たいものも見たくないと思うものでも、きちんと眼に映しているではありませんか。
それほどに因縁生はそのままの無自性なもの同士ですから、遮るものがありません。
遮るものは、「私」の都合によって本来の機能を失わせているだけです。
ですから、こちらがきちんと解決さえすれば、世の中はすべて平和になるのです。
どんな状態であっても、そのまま納得出来るという事です。
私達の体も、ひとつひとつの機能がいつでもそれぞれの機能そのままに働いているから、迷わずに済んでいる訳です。
問題は、私達衆生は本来は「我見」というもので、ものを見ている訳ではありません。
けれども、どうしてもひとつひとつの働きを自分の都合のいい方向に持っていこうとするものですから、葛藤が起きるのです。
それだけの事です。
「本来は手の付けようがないものである」という事を分かってもらいたいのです。
自分の取り計らいさえ用いなければ、綺麗なものも汚いものも、見たいものも見たくないと思うものでも、きちんと眼に映しているではありませんか。
それほどに因縁生はそのままの無自性なもの同士ですから、遮るものがありません。
遮るものは、「私」の都合によって本来の機能を失わせているだけです。
ですから、こちらがきちんと解決さえすれば、世の中はすべて平和になるのです。
どんな状態であっても、そのまま納得出来るという事です。
私達の体も、ひとつひとつの機能がいつでもそれぞれの機能そのままに働いているから、迷わずに済んでいる訳です。
問題は、私達衆生は本来は「我見」というもので、ものを見ている訳ではありません。
けれども、どうしてもひとつひとつの働きを自分の都合のいい方向に持っていこうとするものですから、葛藤が起きるのです。
それだけの事です。
「本来は手の付けようがないものである」という事を分かってもらいたいのです。