悟ってしまえばそれで終わり、それが究極だというものではありません。
それからが真に「無所悟 無所得」という、求める所も悟る所もない「今」の状態、
「今」の日常のありのままの生活が始まるという事です。
多くの修行を志す人達は、おシャカ様や歴代の覚者の言葉の中での修行です。
乃ち、「一切は仏」である、「悟り」である、「法(道)」であるという事を
認識した上での修行です。
ですから、それでは本当の修行にはならないという事です。
おシャカ様や歴代の覚者の教えをレールとして、その上を走っている間は決して
「道」とか「法」というものを悟る事は出来ません。
何故ならば、私達衆生は一人一人が「道」そのものであり、「法」そのもので
あるからです。
先般の道元禅師の教えといっても、それは「自分」と離れているものです。
本当の自分自身を見極めない限りは、そういう方々の教えの中で、自分は
右往左往している状態であるという事に気が付いて頂きたく思います。
私達衆生が、日常生活そのものが、おシャカ様の教えそのもの(信解行証入)
になれば、本当の修行になるという事です。
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