鏡はそのものをズバリ映していますが、鏡自身は汚いとも綺麗とも、好きとも嫌いとも、何も語っていません。
鏡に映していること自体も認識していません。
このように鏡に映った様子を【ありのまま】と言い、私達衆生の一挙手一投足が、すべてそういう働きをしています。
ですから、鏡の様に映るがままに任せて送ったとが出来れば私達衆生は、いかなる場合でも「ありのまま」に、そのまま受け取って生活をし、きちんと全ての物事が解決しているという事です。
ところが、なかなか「ありのまま」になることが出来ません。
何故かというと、そこに「自我」の働きが介在するからです。
そして、人間 (じんかん) の生活においても、言葉以外のところに相手 (もの) の様子や、その持つ意味を考えてしまっています。
百人いれば百人の考え方や意識の中で、自分の生き方というものをこしらえ、生かされてしまうようになります。
その結果、私達衆生は「ありのまま」になれなくなる訳です。
鏡に映していること自体も認識していません。
このように鏡に映った様子を【ありのまま】と言い、私達衆生の一挙手一投足が、すべてそういう働きをしています。
ですから、鏡の様に映るがままに任せて送ったとが出来れば私達衆生は、いかなる場合でも「ありのまま」に、そのまま受け取って生活をし、きちんと全ての物事が解決しているという事です。
ところが、なかなか「ありのまま」になることが出来ません。
何故かというと、そこに「自我」の働きが介在するからです。
そして、人間 (じんかん) の生活においても、言葉以外のところに相手 (もの) の様子や、その持つ意味を考えてしまっています。
百人いれば百人の考え方や意識の中で、自分の生き方というものをこしらえ、生かされてしまうようになります。
その結果、私達衆生は「ありのまま」になれなくなる訳です。