因縁生という事をよく申し上げていますが、一切全てのものが因縁によって出来ており、実体はありません。
これは、決して人がつくったものではありませんし、私達自身も皆因縁によって出来ています。
ものがどうして出来た等ということは分かりません。
それほど実体のないもの同士が生活している訳です。
あるいは誰がつくったものでもない、いつ、どのようにして出来たか分からないのです。
本当に中心のないものですから、見たら見たものとひとつ、聞いたら聞いたものとひとつになれているという事なのです。
隔てをつくるもの、区別をつけるものはないのです。
私達の内臓器官を考えてみて下さい。
それぞれの器官や機能は皆それぞれの働きをしています。
私の為にとか、誰の為にという事ではありません。
純粋にそのような働きだけがあるものです。
又六根 (眼、耳、鼻、舌、身、意) も、どんなものでもそのまま見えているし、そのまま聞こえています。
純粋にそのような働きだけがあるものなのです。
ところが、この身を認めて自分だと思っているものが、そういう純粋な働きをしているものの邪魔をするのです。
そのために、素直に見えている(これから素直に見ようと思うのではありません、すでに素直に見えているのです) ものをわざわざ「私の都合によって」という見方をするのです。
これは、そのものの働き以外のものなのです。
そしてものと自分との間に、わざわざ「素直」などという邪魔をするものを作って、見たり聞いたりするために、構える姿勢が出てきてしまう訳です。
そして、次から次へと「素直に受け入れよう」という考えを巡らしてしまうのが、私達衆生の日常生活の実態なのです。
これは、決して人がつくったものではありませんし、私達自身も皆因縁によって出来ています。
ものがどうして出来た等ということは分かりません。
それほど実体のないもの同士が生活している訳です。
あるいは誰がつくったものでもない、いつ、どのようにして出来たか分からないのです。
本当に中心のないものですから、見たら見たものとひとつ、聞いたら聞いたものとひとつになれているという事なのです。
隔てをつくるもの、区別をつけるものはないのです。
私達の内臓器官を考えてみて下さい。
それぞれの器官や機能は皆それぞれの働きをしています。
私の為にとか、誰の為にという事ではありません。
純粋にそのような働きだけがあるものです。
又六根 (眼、耳、鼻、舌、身、意) も、どんなものでもそのまま見えているし、そのまま聞こえています。
純粋にそのような働きだけがあるものなのです。
ところが、この身を認めて自分だと思っているものが、そういう純粋な働きをしているものの邪魔をするのです。
そのために、素直に見えている(これから素直に見ようと思うのではありません、すでに素直に見えているのです) ものをわざわざ「私の都合によって」という見方をするのです。
これは、そのものの働き以外のものなのです。
そしてものと自分との間に、わざわざ「素直」などという邪魔をするものを作って、見たり聞いたりするために、構える姿勢が出てきてしまう訳です。
そして、次から次へと「素直に受け入れよう」という考えを巡らしてしまうのが、私達衆生の日常生活の実態なのです。