函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

メルトダウンの国

2012年03月12日 11時54分43秒 | えいこう語る
東日本大震災1年目の昨日、私がこれ程涙を流した日はない。
テレビで放映された追悼番組から、私は今の「日本の姿」を追った。
追悼式での野田首相の挨拶で、安心・安全な国土の保全のため「脱原発宣言」を期待していたが「原発事故との戦いは続いています」の文言のみだった。
あの「収束宣言」は、国民を安心させるための、単なるリップサービスだったのか。
原発事故について多くを語らせられたのは、術後の身体にもかかわらず出席された天皇陛下である。首相は原発推進派なのである。原発事故問題には触れず、その緩衝役を天皇陛下に託したのだ。私はそう直感した。
※冬に逆戻りだ。欄干のカラスも雪でかすんで見える。


私は自分はここまで人の悪い人間だと思いたくないが、陛下の病気の発表と手術、そして退院の日、さらに追悼式出席は、逆算した日程だったのではないかと考えてしまう。
「陛下のお言葉」この中に全てを包み込み、原発問題を曖昧にするという、政府のシナリオがあったのではないかと感じた。
昨日のテレビで、米軍の「トモダチ作戦」が、印象に残った。
米軍は軍隊である。軍隊の命は「危機管理」だ。日本政府の要請を受けない前に米軍は被災地に向かう。原発事故が起きた時も、最悪の想定をして行動に当たる。「直ちには人体に危険でない」そんな「危機管理」の希薄さとは訳が違う。同盟国だから守るのはあたりまえと、司令官は言う。
「沖縄の基地問題」は、遠のくのではないかと、ちょっぴり不安にもなる。
首相の式辞にも「海外からの支援に“恩返し”するためにも、国際貢献への積極的な貢献に務める」とある。
自衛隊の海外派遣は「あたりまえ」という、メッセージだろうか。
この大震災と原発事故は、我が国の新たな国づくりの始まりだという認識は、国民の中にもある。
しかし、我が国の政治が「メルトダウン」を起こしているのも実感させられる。
「政権交代」は、国民が望んだ姿である。質のよい政治家を世に送り出すためには、質のよい国民でなければならない。
国民一人一人が穴が開くように、政治家の言動を注視し、次の選挙に臨む気構えを出さなければ、我が国は人間の住めない国になってしまうのではないだろうか。
3月11日を、私は「脱原発始まり日」と、位置づけたいと思う。


東日本大震災

2012年03月11日 14時17分15秒 | えいこう語る
昨年の今日、東日本大震災が発生した。
その後の地獄絵のような映像や、被災された人々の悲しみの声をたくさん聞いた。
普通に生きていた人たちが、突然大津波に飲み込まれ命を失った。
慰めの言葉もない。ただ無力さを実感するだけだった。
今日の震災報道の中で、こんな言葉に驚き、そして希望を持った。
老人たちを励ます為に仮設住宅を訪れた、コメディアンの萩本欽一さんに対しての、あるおばあさんの言葉だ。
尋ねてきた欽ちゃんの手を握り「わし、生きていくことに決めたの」と笑った。「生きていくことに決めたって、あんまり聞いたことのない言葉だね」と、欽ちゃんも笑う。
この1年「絆」を含む様々な応援の言葉を聞いたが「生きていくことに決めた」という言葉ほど、力強い言葉はないように思う。
「人間が人間らしさを取り戻す町」。そんなことを学べるような、理想郷の建設を願いたいものである。
まもなくあの時間がやってくる。
我がとどほっけ村では、被災者を追悼する防災サイレンが、村中に鳴り響く。
※あの日、この海が鳴門海峡のように渦巻いた。雪空の中、カモメたちも被災地に向かい整列しているようだ。


原発のない暮らし

2012年03月10日 09時52分59秒 | えいこう語る
東日本大震災から明日で1年だ。
※グレー色の絵が飾られた「とどほっけ村日の出美術館」。


私は団塊世代なので戦争の実体験はないが、3月11日の大地震と大津波は、空と海からの総攻撃、その後に起きた福島原発事故は、広島・長崎の原爆投下を連想させられた。
戦争と同じような光景を、地デジ放送に切り替わった2011年に、リアルタイムの大映像で見せつけられ、私自身も21世紀前半に起きた、新たな戦争体験者になったような気持ちになってしまった。
昭和の戦争のように、戦争責任は国民にはなかったのかという、問いと共に。
自然災害は、この地球に住むことの避けられぬ地殻変動としても、福島原発事故は日を追うごとに、私たちが避けられた事故ではないかと思うからだ。
そのような考えに、直木賞作家の高村薫さんは、人間としての真摯なメッセージを発している。
「失ったものを取り戻したいだけではだめで、未来を見据えた環境整備をしなければならない。それは子供たちがいるからだ。復興資金を子供たちの方に配分するべきだ。私たち大人がこの時代を作ってきたのだから、子供たちに対し本当に頭を垂れるべきである。再び大地震が起きた時の被害とその先の未来を考えたら、電力が少々足りなくても、生産活動が制限されても、原発は止められなければならない。“理性の出番です”」      
さらに「様々な価値観と欲望に動かされる世の中で、どうやったら最低限の合意点を見いだされるか。とても難しいことですが“子供のことであれば”私たちは一致できるはずです」と結んでいる。     3月9日北海道新聞。
震災後、様々な人々の発言を聞いた。その中で、母親が子供の未来を考える言葉に、一点の虚飾もないことを知らされた。
明日の追悼式。野田首相の挨拶に、我が国の未来をこの政権に託すことが出来るかの答えが、見えるに違いない。


真犯人は誰だ

2012年03月09日 09時56分13秒 | えいこう語る
昨夜、NHKテレビ「ニュースウオッチ9」で、原発の再稼動について枝野経産大臣が、今後の方針について話していた。
「様々なプロセスを踏んで、安全性が確保された時点で地元の意向を聞き、最後は政治判断」というが、福島原発の収束も儘ならないうちに、何を基準として再稼動を政治判断するのか、音量を高くして聞いてもよくわからなかった。
野田総理や枝野大臣の発言は、実直そうな人柄には見えるが「言語明瞭意味不透明」だ。この二人なら、殺人容疑でコロンボ警部に尋問されても、決め手を欠き逮捕はしにくいタイプだろうと、テレビを見ながら考えてしまう。
これほどまでに日本の政治家の言葉が、国民に理解できにくくなったのは、どうしてなのだろうか。
※ROUTE278の雪。この雪を取り除かなければ、我が店舗、サーフ・サイドもオープンできない。


「ニュースウオッチ9」に続き、NHKスペシャル「原発マネー“3兆円”はどこへ?電力会社・国・自治体当事者たちの告白」を観た。
青森県六ヶ所村の核燃料リサイクル施設。電力会社や国からの原発交付金は、立地自治体や周辺自治体にばら撒かれる。当然それ以外の市町村からは、原発反対の声が上がる。
青森県知事選。原発推進派の知事がかろうじて勝利した後、選挙結果を分析した県幹部が、国に進言する。
「青森県全市町村に、交付金を分配してくれないか」と。
その元担当者が、テレビに出演し淡々と話す。県全体が潤うのだから最善の策ではないかというように。
以後原発交付金は、青森県全域市町村に分配される。勿論、電力料金に上乗せされるという仕組みである。結局は、電力を使用している国民全てが、原発推進派に活動資金を提供しているのである。さらに言えば、青森県知事選挙の選挙違反を、国民が後押ししているということである。
福島原発施設に近い現職のある町長も出演していた。
「東北の町は何にもないところだ。貧乏だから原発を誘致しなければならなかった。今、再稼動をしなければ、生活が成り立たなくなる」といい、電力会社の幹部と会い、再稼動を促す場面まで放映された。以前なら、その場面だけにはテレビカメラは入れなかったはずだ。
もはや原発マネーに依存しなければ生きていけぬ、受け入れた町の赤裸々な現状が浮き彫りにされていた。
福島原発事故は誰のせいかというのは、愚問かも知れない。
国民一人一人が真犯人であるという自覚がない限り、この問題は解決しないのではないだろうか。
でも、責任の所在を国民全体にしてしまい、罪の意識を薄めてしまうというのも、この国の特徴でもあるが。
3月11日の追悼式。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、増税をヨロシク」というような意味の首相の言葉が、全国に流れそうな気がしているけど。


病院待合室風景

2012年03月08日 11時18分11秒 | えいこう語る
田舎の病院はいつ行っても、お年寄りの集団検診のような賑わいである。
路線バスの便数が少ないので、病院のバスが到着すると、お年寄りの集団が我先にと下りて、受付に走る。診察が終ると、またバスに乗り去ってしまう。
地域も過疎だが老人が去った後の病院ほど、過疎の悲哀が漂うところもない。
その賑わっている待合室での、80代の顔見知り同士の会話だ。
「父さんしばらく見ないうち、ずんぶスマートになったね」とおばさん。田舎のお年よりは若者に感化され、自分がお年寄りと思われたくないので、意外と外国語を意識している。
「なに、最近やせるために、外でストッキングしているんだ」。おじさん大声でいう。ウオーキングを間違えたのだ。周囲はお年寄りばかりで反応がないが、近くにいた若い女性は、必死で笑いをこらえていた。
※日の出美術館も、春のやわらかな作品が多くなってきた。


次に函館市内の病院での会話である。
お見舞いに来た人たちの待合室に私がいると、79歳だと言う女性に声をかけられた。私は町会長をしているので、比較的お年寄りには声をかける。そんな習慣からお年寄りが話しやすい雰囲気があるのだろう。
おばさんは以前、緑内障で失明を免れないと医師から宣告されたそうだ。
そこで農家の仕事はやめ、仕事は夫に任せ、病院には真面目に通い、薬も忘れずに飲んだそうだ。夫にはよく温泉に連れて行ってもらったとも話している。
リラックスして、ストレスをためないことがよかったのか、奇跡的に失明は免れ、視力も回復したという。待合室から遠くに建っている五稜郭タワーも見えると胸を張った。
眼科の先生はその奇跡を、学会に連れて行って話したいとまでいっているそうだ。みんな父さんに親切にしてもらったおかげだと、熱弁を振るう。私もうなずいてしまう。
来年は、アメリカ旅行をするとまでいう。
ところで今日はお見舞いですか、と私が尋ねると、うちの父さんが入院していて、後、数日の命なんだ、と、いとも簡単にいう。
いくらなんでも、そのギャップには、驚いてしまう。
さらにおばさんは付け加える。息子や娘たちから、父さん大丈夫なのと電話がかかってくるけど、私は遠くに住んでいる子供たちに、いらぬ心配をかけてはならないと思うから、いつも元気だと答えるようにしているという。
死んだ時はその時さ、ともいう。私はその言葉にも妙に納得する。
「明るさ」それが今の世の中に必要な、キーワードなのだろう。
3:11から1年が、まもなくやってくる。自然災害の処理が済んでも、原発事故の不安は生涯残るだろう。「明るさ」の取り戻せない地域を二度とつくってはならないのである。
病院経営だって「明るさ」が必要ではないかと、独特の匂いが漂う老人病院内で考えさせられた。