函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

主語がない

2012年03月04日 09時28分10秒 | えいこう語る
自分の頭の中ではすでに物事が整理されていて、あれ、これ、と指示するが、相手に伝わらないことがある。
「あなたは主語がない」と妻にしかられる。
「主語とは主(神)の言葉だから、聞こえないのはあたりまえで、長年一緒に暮らしているのだから、以心伝心で理解してもいいじゃないか」と、心の中では思うのだが、言葉は飲み込んでしまう。ダジャレなどではすまないからだ。
務めていた時は正確に話さないと、相手に伝わらなければ自分が困るだけなので気をつけていたが、仕事を辞してからは妻と二人だけになったので、まったく主語を欠く会話が多くなってしまったようだ。
「お昼はメン類が食べたいな」と、つぶやく。
妻は、昨日スーパーで、私がうどんを食べたいと言い購入してきたので、うどんを用意する。
「うどんでなくて、昨日ちょっと飲みすぎたから、胃にやさしい、そう麺のほうがよかったのに」というと、妻の怒りが爆発する。
「あなたの胃の中まで、分るわけないじゃないの」。・・・まあ、そのとおりである。
「昨日飲んだから、そのくらい察してもいいじゃないか」などと言ったら“薮蛇”になるに決まっているの。死んだふりもできないので、後は新聞から顔を上げないようにするだけだ。
なんといっても“沈黙は金”というのが、長年連れ添った妻との関係を保つ上での、格言である。
※大沼在住のW・Jさんの作品。小物だがエスプリが効いている。ウイスキーを飲んで「海と人生」などというものを、語ってみたくなる。


しかし「背中が痒い」というだけで、妻は正確にその場所をかいてくれる。
「ちょっと右、ちょっと左、ちょっと上、下」といっただけでも、見事にその場所を探し当てる。妻の手さばきには寸分の狂いもない。
妻に尋ねると「あなたの背中は、あなたの性格と違って単純で、いつも同じ場所だから」という。
「男の背中」には哀愁がある。
高倉健さんの後姿、映画「道」のアンソニー・クイーンの背中には、どうしようもない男の悲しみとやさしさが漂っていたが、私の背中には、「単純な男」というレッテルが張っているようだ。
そういえば、高倉健さんもアンソニー・クイーンも、映画の中ではあまり主語を使わなくても、相手には充分心が伝わっていたようだ。
でも、相手の女性には、最後には哀しい思いをさせてしまうのだ。
そう言えば、主語がはっきりしている映画は、いい映画とはいえないようだ。
映画が終わり、映画館を出た時の心地よい余韻は、あの主人公があの時なにを言いたかったのかということを、自分が主人公になって考えるところにあったのではないかと、ふと思い出した。
はっきり伝えなくても、相手の心を読み取り、思いやることが、「夫婦」という名画を作り出すのではないかと、勝手に考えてしまう。
「主語がない」と妻に罵られるが、さっき話していたことが、とんでもない話題に「話が飛びすぎる」というのも、最近の妻の苦情の一つでもある。