函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

家族葬

2012年03月21日 15時21分41秒 | えいこう語る
少子高齢化による家族葬が増えていると聞く。
先日妻の母が、15年もに及ぶ長い闘病生活の末、95歳で亡くなった。
すでに他界した父と同様、生まれは青森県だが、結婚し函館で居を構えた。親戚も代替わりになり疎遠になっているのでの、家族葬をとりおこなうことに決めた。
宗派は私と同じ浄土宗で、父の葬儀の時の若住職は、今ではご子息3人も住職になられ、月に170件の葬儀をこなしたことがあると、函館市の高齢化社会の現状など話してくれた。
葬儀社の社長はご住職と同年代で、3人の中では私が若干先輩である。
社長の父親は夕張で炭鉱マンだったが、閉山前に退職され実家がある函館に移り住んだという。函館市、夕張市、とどほっけ村と連なれば、話題は“まちづくり”の話に集中する。函館市の元気のなさは何が原因なのかに及んだが、共通した意見は、函館市役所が巨大化し過ぎ、考え方に斬新さが欠けるというものだった。
函館市内の葬儀は、関西資本のB社と地元老舗のH社が3分の2を占め、残りを数十社で取り合っている厳しい現状なども聞くことができた。
過疎化が進む田舎で、大きなまちより豪華なものは、結婚式と葬儀であろう。
住民のほとんどが出席するからだ。
無駄な出費と、誰の葬儀か結婚式かの自覚もないままのものも時にはある。
しかし家族葬の場合は、身内なので気心知れている分、騒動もあるようだ。
私たちは、心優しいご住職と葬儀社にも恵まれ、納得のいく葬儀が終了し、一同心をなで下ろしている。
※除雪で壊れた私のお気に入りの看板。


戦後我が国は、大きいものがいいと、もてはやされた時代が続いたが、3:11以降、小さなものでも大切するという“心の時代”がやってきたのではないかと、ふと感じることがある。
小さな村に住み、不便は確かに多いが、この小さな集落から“心の時代”を考えるヒントがあるのではないかと、考えたりもする。
そんな意味では、私たちの生まれた土地一帯は、国宝の「中空土偶」が出土した“縄文の故郷”である。
縄文の精神文化に学ぶことにより、「小さいけどきらりと光るまちづくり」が可能なのではないかと思った、家族葬だった。
函館市の火葬場は津軽海峡を見下ろす、函館山の麓にある。
晴れ渡る青空の向こうには、生まれ故郷の青森県が見える。
母はにっこり微笑んで、浄土の世界に旅立ったに違いない。


瓦礫の受け入れについて考える

2012年03月17日 15時35分38秒 | えいこう語る
新聞に出ていた話だ。
日本列島の白地図を渡し、原発事故の汚染範囲を色鉛筆で塗りつぶさせると、東北の人は福島県全域を塗りつぶすという。
東京の人は東北全域、北海道の人は東北と関東、関西の人は東北・関東・北海道を塗る。だが海外の人は日本全体を塗りつぶす、という。
これは伝聞だから、真意の程は分らないが、記者が言うには、自分がいるところを汚染範囲に含めないことが特徴だと書いてある。
私だったら、北海道・東北を塗りつぶす。
私の住む道南地方は、東北からの移住者が多い。自分たちの身にも降りかかっていると思うからだ。なぜ放射能の影響があるという関東を塗りつぶさないかというと、人口の多い関東にではなく、人口が少なく広大な大地北海道に流れてきたほうが、被害が軽減されるのではないかと思うからだ。
私の単純な気持ちとして、日本の中心の関東がだめになると、日本がだめになると思っているからだ。


被災地の瓦礫を処理しなければ、復興は始まらないと誰しもが思っている。
だが、原発事故以後の政府や東電の発表が、あまりにも信頼に値しないので、国民は迷っているのだ。
静岡県島田市は紡績工場で発展し、戦後東北から多くの若者が働き入り、結婚し移住する人も多かったという。桜井市長は被災地出身の住民から「ふるさと東北を助けて」と頼まれ、瓦礫処理を引き受けたという。
市長は「人ごとではない」と感じ、議会の受け入れ決議もあって最終決断する。私は素直にすばらしいことと思うが、議会にかける前に、住民投票など、民意を汲み上げる手続きをとったかということである。市長も「絆」が大事というようなことをテレビで話していた。「絆」という言葉が一人歩きし、一人一人の考えが「絆」に抑えられては、感心することではないように思う。
瓦礫処理の問題は、市民レベルの討論を活発にさせてから、議会や首長が判断すればいいことだと思う。
ちょっと些細な話だが、私の妻が出くわした昨日スーパーでの買い物の話である。
東北産のキノコが80円で、北海道産のが110円なので、妻は80円のキノコを選んだ。隣にいたおばさんが「奥さん、それ安くても東北産だよ、北海道産のほうがいいよ」といったそうだ。妻は、おばさんは親切心でいってるのは理解したが「私は東北を応援しているから」といったそうだ。おばさんは黙ってしまったという。
上記の地図の色塗りのように、普段善良な市民もが「差別する状態」を作ってしまったのは、原発事故が原因である。
瓦礫の受け入れにしても「脱原発」と引き換えであれば、人々の心も少しは動くのではないだろうか。


岩に名を残した男

2012年03月16日 16時40分02秒 | えいこう語る
椴法華村にKさんという、明治生まれの男性がいた。
Kさんは網元の次男に生まれ、若い頃は苦労知らずのやんちゃ者であったという。様々なエピソードの持ち主だが、その一つを紹介する。
ある朝Kさんが起きて来ないので部屋に行ってみると、寝ているようだが返事がない。布団を剥ぐと「東京」とだけ書いた紙があったという。どうやら朝一番のバスで、村を脱出したらしい。Kさんは普段から魚場のヤン衆連中に「俺、東京へ行ってタクシーの運転手になる」と、豪語していたようだ。
大正末期から昭和初期まで、東京のタクシーはどこへ走っても1円だったので「円タク」と呼ばれていた時代である。タクシーの運転手になるにはまず助手として同乗し、修行を続けなければならなかった。エンジン始動時には、車外に出てクランクシャフトを手回したりする仕事や都内の地図を覚えるなど、北海道の田舎から突然都会に出た者には、相当厳しい修行だったらしい。
Kさんは半年で夢破れ来村することになった。田舎で言えば「いいふりこき」よく言えばお洒落だったKさんは、東京の記念として中古のヴァイオリンを購入し、近所の人を集めては東京での話を面白おかしく語り聞かせたという。習ったわけでもないのに、演歌師よろしくヴァイオリンを弾き聴かせたそうだ。
ところが「ギーギー」という耳障り音だけが残り、村人はKさんを「ギーギー」と呼ぶようになったという。
Kさんが亡くなってから、北海道新聞夕刊の釣り情報欄に、時々椴法華村銚子岬の情報が掲載され、そこに「ギーギー岩」という名称が出てくる。そこでKさんのご長男が村の古老数人から、その真相を突き止めたという。
※この岬にその岩がある。


「あの岩に、毎日のように一番乗りで釣りに来るお前所(オメドゴ)の親父(オヤズ)は、一人か二人しか座れねえ場所に陣取って、他の奴がそごにいれば「オラの場所だ」というもんだから、みんな半ば呆れて、そごば指定席に認めて空けるようになったね。オメドゴのオヤズの綽名は「ギーギー」だから、誰言うともなしに「ギーギーの岩」と呼ぶようになった」と話してくれたという。
ご長男は、来年は父の27回忌法要を迎えるが、草葉の陰で得意のヴァイオリン演奏を、みんなに披露するに違いないだろうと語っていた。
Kさん、実は私の親戚でもあり、私の記憶にもその姿がある。
明治生まれの頑固さと大正ロマンを心に秘め、激戦の地にも2度も招集された、生粋の帝国軍人でもある。
昔は、今も語り草になる個性の塊のような先人が、村にも多くいたのである。
「岩に名を残した男」そんな我が村の異人伝の一つである。
                  2006年の思い出話より。


昨日の地震

2012年03月15日 15時06分01秒 | えいこう語る
昨日の夕食時、グラット揺れを感じ、東北と北海道の太平洋側に津波注意報が発令された。
津波の高さは50センチだという。しかし津波は次々襲いかかるので、高さが何倍にもなる可能性がある。津波到達時間までは20分ほどあるが、私たち夫婦は、避難準備をしてから隣の老人宅に向かった。
私の家の前が海なので「波の状態を見て避難するので、次に私が迎えに来るまで避難する準備し、すぐ車に乗れるように」といった。
「いつも飲んでいる薬も持つように」とも、指示した。昨年、村で避難訓練を行なった時、保健婦さんに言われていたからだ。
昨年の3:11の時もそうだったが、隣の老夫婦(88歳と84歳)困ったものだ。
「俺は逃げない」とおじさんがいい「私は逃げる」とおばさんはいう。
昨日、百歳まで生きれそうだといってたおじさん。「じゃ、おじさんとは今生の別れだな、置いていくから」と私。
昨年の東日本大震災時もそうだったので、私ははっきりいってある。「私の車がおじさんの家の前にとまった時、おじさんたちが玄関に出ていないと置いていくから」と。いくら町会長でも、避難が遅れては自分たちの命も危ないからだ。
時間が経ち津波の心配がなくなったので「今日は大丈夫だから」といいに行ったら、今度はおばさんまでもが「私も逃げないから」といい出す。
そんな話に付き合っていれば、私までも眠れなくなるので、すぐ家に戻った。
今朝目覚めると、また雪が積もっている。外に出ると、みんなうんざりした顔で除雪をしていた。


隣の老夫婦、昨夜、逃げる逃げないで、また口喧嘩をしたのか、外に出てこないので、隣の家の前も雪かきをした。
雪かきを終えたら、隣のおばさんが来て、雪かきのお礼にといって、缶ビールを私に持ってきた。
そして私の妻に、こういったそうだ。
「とうさんは逃げないといっているけど、私はもう少し生きたいから、車に乗せていって」と。
私は思っている。家中の物が倒れるような、大きな地震が起きた時、おじさんとおばさんは我先にと玄関に出て、私の車を待っているに違いないのだ。
お年よりは以外と、危機に際しては迅速な行動をとるものである。
それは、戦争を体験しているからだと私は思う。
たぶん、大災害時には「もっと早く来たらいべさ」と、いうに違いないからだ。


国旗と国歌

2012年03月13日 12時00分32秒 | えいこう語る
今年は昭和87年だそうだ。
戦争が終ったのは昭和20年だから、それから67年も経つ。随分経ったと思うけど、去年の東日本大震災の、戦火の跡のような光景を見ているせいか、戦後が随分引き付けられてしまったように感じる。
そのせいかどうかは分らないが、我が国には「国旗」「国歌」問題が、時折勃発する。
大震災の後である。政治が混乱し続ける我が国では、強いリーダーシップを発揮する政治家の登場を期待する、国民の声が大きくなっているようだ。
その声に共鳴し、こだまの様に登場してきたのが橋下大阪市長である。
弁護士出身だけあって、論戦は得意で歯切れもいいし、打たれてもよく響く。
でも、学校現場で「君が代」を歌わなない教師を処分するというは、ちょいと行き過ぎではないかと思う。
東日本大震災の1周年追悼式典では、天皇皇后両陛下のご臨席の中「君が代」の斉唱が行われた。
天皇陛下の病気快復式典ではない。被災者への追悼式に「君が代」は、場違いではないかと直感する。この式典の最高責任者は、総理のはずである。国歌斉唱で復興への思いを一つにするのはいいが「君が代」は天皇を称える歌なのだ。私が陛下の気持ちになってみれば「何も私の歌をこの場で歌わなくても」と、思ったに違いない。そこで気恥ずかしくなり、早々に席を辞したように私は感じた。もし最後までいたら「天皇陛下万歳三唱」が待っていたのかもしれない、などと天皇家フアンである私などは、そんなふうに真面目に心配してしまうのである。
※昭和14年椴法華尋常高等小学校卒業式写真から、奉安殿前の集合写真。野球の試合の時だが『他校来襲』とある。


フアンである私などは、そんな風に真面目に考えてしまうのである。
日本近代史を少しは勉強すれば、「君が代」は教育現場で強制する代物ではないというのはわかるはずだ。
ところが1999年8月9日に、政府提案からわずか16日という実質審議で「国旗・国歌法」が制定されてしまった。
時の総理は、人柄のよい平成おじさんの小渕恵三だ。その官房長官は、最も法制化に熱心だったといわれる野中広務だ。そして「強制はしない」と、政治家特有の言葉で官房長官談話を発表したのだ。
先日の橋下市長の選挙応援に、野中氏の顔が見えたのがなんだか気になる。
「国旗・国歌問題」は、時々ゴングがなるが、なぜかすぐ停戦状態になる。しかし、ボディーブローを打ち続けたほうが、最終ラウンドには判定勝ちというような感じがする。
「日の丸」は、白い布に赤い丸なので、国際的な行事には居場所の目印と思っているので、別に不快感もない。それに、別に布(旗)に頭を下げるつもりはないからだ。
ところがこの旗という存在も、ある状況下に置かれると、気軽なものではないようだ。
昭和11年、昭和天皇が旭川での大演習のために、来道された時の話である。青函連絡船の一等寝台室の一部屋を「軍旗」が陣取り、外には不寝番が立っていたという。旗が人間より大事にされていた時代があったのである。
まさか今の時代に「日の丸」が国民より偉い、なんてことにはならないだろう。
市の職員には口を尖らせる橋下さんだが、子煩悩らしい。
彼の登場で、久々に「国旗」「国歌」を、そろそろ日常生活の中で話し合う機会になればいいと思う。
私は「君が代」は、天皇家の皇歌であればいいと思う。
私たち国民の象徴である。皇歌であれば、陛下がご臨席される場所では、大きな声で歌いたい。
そうであれば、憲法第19条に規定されてある「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」には、該当しないはずであると思うけど。