幕末三舟と言えば、ペリー来航後、幕府側にあって活躍した勝海舟(麟太郎)、山岡鉄舟(鉄太郎)、そして高橋泥舟(でいしゅう)(謙三郎)を言う。海舟は心影流免許皆伝、鉄舟は一刀流で目録を得、後に無刀流の開祖となる程の剣術の強者(つわもの)であるが、泥舟は当時海内無双(かいだいむそう)と言われた槍術の名人であった。
海舟の盛名は今も高いし、鉄舟も江戸開城の下打ち合わせ交渉で西郷隆盛と談判、また維新後は明治天皇の侍従になったので、人口に膾炙(かいしゃ)している。しかし、泥舟は殆どの人が知らないであろう。
高橋泥舟は、小録の幕府勘定方・山岡家の次男に生まれた。若くして隣接する母方の実家、やはり勘定方である高橋家の養子となった。高橋の義父は、刃心(じんしん)流槍術で名を成した人である。泥舟の7歳年上の兄は、山岡紀一郎(静山)と言い、これも若くして槍術の才能を発揮、その実力は幕府に認められていた。泥舟は、毎日静山に鍛えられて、天賦の才能が一層磨かれた。
静山は、27歳で心臓病のため逝去、請われて小野鉄太郎が山岡家の後継ぎとして婿入りした。こうして、彼(後の鉄舟)は、泥舟の義弟になった。鉄太郎は、身長188cm、体重108kgの堂々とした偉丈夫である。
泥舟は、若干21歳で抜擢され、講武所槍術教授の職を得た。高橋家は代々勘定方(文官)であったが、泥舟の槍の業を評価されて、新御番(武官)へ組み換えになる。しかも騎乗を許される高級武士である。その後も彼は栄達を続けて、講武所槍術師範となった。更に従五位「伊勢守」に任じられた。
年表風に高橋泥舟関連の事項を記すと、
1835 山岡家次男として江戸・鷹匠町(現在の市谷付近)に生まれる
1852 高橋家へ養子縁組(17歳)
1853 ペリー来航
1855 幕府勘定方へ出仕(20歳)
兄・静山逝去(享年27歳)
小野鉄太郎(19歳)、山岡家へ婿入り
1856 講武所発足、槍術教授に迎えられる
1860 講武所槍術師範役
1863 一橋慶喜に随行して、京都滞在。従五位下伊勢守を拝命。
清河八郎らの浪士組を引率して、江戸へ戻る
讒言により失脚、謹慎
1867 慶喜(30歳)、15代将軍に就任
大政奉還
1868 戊辰戦争
明治維新
徳川慶喜に徹底恭順を説く;上野・寛永寺で慶喜の身辺警護
江戸開城、慶喜に従い、水戸下向
1869 徳川家達(16代)の指示で駿府(現在の静岡市)へ移住
田中奉行拝命;焼津近くに住む
1871 廃藩置県(7/14)
徳川家と共に東京へ戻る。
以後、官職に一切就かず、書画・骨董の鑑定などをして隠棲。
1888 義弟・鉄舟逝去(享年53歳);彼の残した莫大な借財を始末
1899 勝海舟逝去(享年77歳)
1903 泥舟逝去(享年69歳)
泥舟は、慶喜将軍に徹底恭順を説き、自ら寛永寺に謹慎することを進言、慶喜から西郷隆盛に会って、江戸開城の打ち合わせをするよう頼まれる。慶喜のみを案じる泥舟は、義弟・鉄舟を推薦し、了解を得てその役目を行わせる。鉄舟は、当時の幕府実力者であった海舟と打ち合わせして、駿府へ赴き西郷と談判、慶喜処分と江戸開城のあらましを決めた。
海舟と西郷の「江戸無血開城」談判は、泥舟の影ながらの貢献に大きく依存している。
高橋泥舟は、明治維新後要職を引き受けるよう何度も誘いがあったのだが、徳川宗家が官職に就いていない以上、お引き受け出来ないとして断り続け、以後三十数年清貧の中に後半生を送った。
勝海舟は、明治維新後、海軍卿などを歴任、伯爵となった。政権交代しても世渡りが上手だとして、福沢諭吉に「痩せ我慢の説」で揶揄(からか)われたが、海舟は徳川宗家よりも日本国家のあり方を考えていたため、敢えて明治顕官として海軍創設に努力したのであろう。
鉄舟は、他の二人とは少し異なり、素朴な人柄で強固な思想的心情を持たなかった。義兄・泥舟に深い信頼を抱き、新政府のため侍従となって若き明治天皇のお相手をした。
明治天皇も、鉄舟の朴訥(ぼくとつ)な人柄を愛した。天皇は体格に優れた方であり、相撲がお好きであった。ある時、ほろ酔い加減になられた天皇が「山岡、一番やろう」と庭へ鉄舟を誘われた。鉄舟は、天皇に遠慮せず、投げ飛ばした。側近達が天皇に媚びているのが我慢ならなかったのだ。鉄舟は恐懼(きょうく)したが、天皇は笑われてお咎めは無かった。彼は、子爵に叙されている。
泥舟の神技と忠誠心の篤さは、維新政府の重鎮にも良く知られていたから、政府高官として活躍出来たであろう。だが、彼はそうすることなく、一介の市井人として静かに余生を過ごした。
この幕末三舟は、揃って達筆であり、立派な揮毫(きごう)を残している。鉄舟は豪快に飲み、乞われるままに筆を振るったようで、一番数多く書が残されていると思う。
私は、徳川家への忠義に生きた高橋泥舟の爽(さわ)やかな人生は素晴らしいと思う。
(参考)
子母澤寛、「逃げ水」(上、下)、徳間文庫、1986
高橋泥舟の伝記小説。昭和34年―35年にかけて、産経新聞に連載された。徳間文庫刊は入手不可能であるが、その後、中公文庫で再刊されている。
海舟の盛名は今も高いし、鉄舟も江戸開城の下打ち合わせ交渉で西郷隆盛と談判、また維新後は明治天皇の侍従になったので、人口に膾炙(かいしゃ)している。しかし、泥舟は殆どの人が知らないであろう。
高橋泥舟は、小録の幕府勘定方・山岡家の次男に生まれた。若くして隣接する母方の実家、やはり勘定方である高橋家の養子となった。高橋の義父は、刃心(じんしん)流槍術で名を成した人である。泥舟の7歳年上の兄は、山岡紀一郎(静山)と言い、これも若くして槍術の才能を発揮、その実力は幕府に認められていた。泥舟は、毎日静山に鍛えられて、天賦の才能が一層磨かれた。
静山は、27歳で心臓病のため逝去、請われて小野鉄太郎が山岡家の後継ぎとして婿入りした。こうして、彼(後の鉄舟)は、泥舟の義弟になった。鉄太郎は、身長188cm、体重108kgの堂々とした偉丈夫である。
泥舟は、若干21歳で抜擢され、講武所槍術教授の職を得た。高橋家は代々勘定方(文官)であったが、泥舟の槍の業を評価されて、新御番(武官)へ組み換えになる。しかも騎乗を許される高級武士である。その後も彼は栄達を続けて、講武所槍術師範となった。更に従五位「伊勢守」に任じられた。
年表風に高橋泥舟関連の事項を記すと、
1835 山岡家次男として江戸・鷹匠町(現在の市谷付近)に生まれる
1852 高橋家へ養子縁組(17歳)
1853 ペリー来航
1855 幕府勘定方へ出仕(20歳)
兄・静山逝去(享年27歳)
小野鉄太郎(19歳)、山岡家へ婿入り
1856 講武所発足、槍術教授に迎えられる
1860 講武所槍術師範役
1863 一橋慶喜に随行して、京都滞在。従五位下伊勢守を拝命。
清河八郎らの浪士組を引率して、江戸へ戻る
讒言により失脚、謹慎
1867 慶喜(30歳)、15代将軍に就任
大政奉還
1868 戊辰戦争
明治維新
徳川慶喜に徹底恭順を説く;上野・寛永寺で慶喜の身辺警護
江戸開城、慶喜に従い、水戸下向
1869 徳川家達(16代)の指示で駿府(現在の静岡市)へ移住
田中奉行拝命;焼津近くに住む
1871 廃藩置県(7/14)
徳川家と共に東京へ戻る。
以後、官職に一切就かず、書画・骨董の鑑定などをして隠棲。
1888 義弟・鉄舟逝去(享年53歳);彼の残した莫大な借財を始末
1899 勝海舟逝去(享年77歳)
1903 泥舟逝去(享年69歳)
泥舟は、慶喜将軍に徹底恭順を説き、自ら寛永寺に謹慎することを進言、慶喜から西郷隆盛に会って、江戸開城の打ち合わせをするよう頼まれる。慶喜のみを案じる泥舟は、義弟・鉄舟を推薦し、了解を得てその役目を行わせる。鉄舟は、当時の幕府実力者であった海舟と打ち合わせして、駿府へ赴き西郷と談判、慶喜処分と江戸開城のあらましを決めた。
海舟と西郷の「江戸無血開城」談判は、泥舟の影ながらの貢献に大きく依存している。
高橋泥舟は、明治維新後要職を引き受けるよう何度も誘いがあったのだが、徳川宗家が官職に就いていない以上、お引き受け出来ないとして断り続け、以後三十数年清貧の中に後半生を送った。
勝海舟は、明治維新後、海軍卿などを歴任、伯爵となった。政権交代しても世渡りが上手だとして、福沢諭吉に「痩せ我慢の説」で揶揄(からか)われたが、海舟は徳川宗家よりも日本国家のあり方を考えていたため、敢えて明治顕官として海軍創設に努力したのであろう。
鉄舟は、他の二人とは少し異なり、素朴な人柄で強固な思想的心情を持たなかった。義兄・泥舟に深い信頼を抱き、新政府のため侍従となって若き明治天皇のお相手をした。
明治天皇も、鉄舟の朴訥(ぼくとつ)な人柄を愛した。天皇は体格に優れた方であり、相撲がお好きであった。ある時、ほろ酔い加減になられた天皇が「山岡、一番やろう」と庭へ鉄舟を誘われた。鉄舟は、天皇に遠慮せず、投げ飛ばした。側近達が天皇に媚びているのが我慢ならなかったのだ。鉄舟は恐懼(きょうく)したが、天皇は笑われてお咎めは無かった。彼は、子爵に叙されている。
泥舟の神技と忠誠心の篤さは、維新政府の重鎮にも良く知られていたから、政府高官として活躍出来たであろう。だが、彼はそうすることなく、一介の市井人として静かに余生を過ごした。
この幕末三舟は、揃って達筆であり、立派な揮毫(きごう)を残している。鉄舟は豪快に飲み、乞われるままに筆を振るったようで、一番数多く書が残されていると思う。
私は、徳川家への忠義に生きた高橋泥舟の爽(さわ)やかな人生は素晴らしいと思う。
(参考)
子母澤寛、「逃げ水」(上、下)、徳間文庫、1986
高橋泥舟の伝記小説。昭和34年―35年にかけて、産経新聞に連載された。徳間文庫刊は入手不可能であるが、その後、中公文庫で再刊されている。
>高橋泥舟は、明治維新後要職を引き受けるよう何度も誘いがあったのだが、徳川宗家が官職に就いていない以上、お引き受け出来ないとして断り続け、以後三十数年清貧の中に後半生を送った。