F老人の気ままな島暮らし日記

尾道市生口島で気ままな島暮らしの日々。

ウロウロヨロヨロ旅-九州編第40日 種子島最終日

2015年11月29日 08時25分07秒 | 旅行記
11月28日(土)Hotel Lextonで起床。



ようやく、フェリーに乗れる日が来ました。ぎりぎりまでホテルで過ごし、チェックアウトして、「種子島開発総合センター」別名「種子島博物館」または「鉄砲館」へ。





蝶や



貝。



丸木舟。種子島と屋久島には丸木舟に適した五葉松が自生しています。



大きな五葉松の根。



鋏も有名です。砂浜の砂を見れば砂鉄が豊富なところだとすぐ気が付きます。それが鉄砲にも結び付いているんですねえ。



漂着したのは中国の船に乗ったポルトガル人。中国人が筆談で通訳。



島の最南端から領主のいる西之表に回航して修理。



領主に鉄砲を披露。2丁を2000両で買い取ります。



刀鍛冶に作らせます。尾栓のネジキリができません。刀鍛冶尾の娘、若狭姫はポルトガル人と結婚。日本最初の国際結婚。ネジ切りのノウハウとの関係はよく分かりません。若狭姫は後に帰ってきます。お墓もあります。フェリーの名前は「Princessわかさ」。実在したかどうかは分からないそうです。



修理が終わった船は若狭姫を乗せて出港します。



初伝の鉄砲、最初に作った鍛冶八板金兵衛の作とされるものは撮影禁止でしたがいろいろな銃が飾ってありました。







伊能忠敬は1812年5月1日から8日の間、種子島を測量しています。2隊に分かれてとはいえ、早すぎます。このころには完全に測量方法が熟達していたのでしょうね。



馬毛島鹿。馬毛島の持ち主が中国に売ると言ったとか言わないとか、道の両側にはFCLP基地建設賛成派と反対派の看板が。世界遺産となった屋久島を飛行区域に入れざるを得ないことから実現困難と言われているようです。



道を挟んだ反対側に「種子島氏」の城址。



鉄砲を買った種子島時堯の銅像。先見の明がありました。



少し早めに港へ。種子島最後の食事は「トッピー(トビウオ)の塩焼き」。美味でした。種子島でもっとも収穫量が多かったのはトビウオとのこと。





並んで



乗船。



キツキツ。



岸壁を離れ、



堤防の赤灯台もロケット。



馬毛島にも別れを告げ、



眠ってしまい、気が付くと薩摩半島。



桜島。



鹿児島市街。



上陸後、時間が少しかかりましたが、道の駅「えびの」まで移動し、停泊。








ウロウロヨロヨロ旅-九州編第38・39日 フェリー欠航停滞

2015年11月27日 15時56分47秒 | 旅行記
11月26日(木)強風で揺れるインディ君の中で起床。片付けているとまったく分からないところから電話。「台風26号の影響で本日のフェリーは欠航です。」「えっ!」「明日の便は満載で土曜日の便にしてください」「えっ!」他の会社も欠航のようです。

西之表市内の公園に移動してここで2日間停泊するつもりでいると

1 テレビが映らない。

2 wifiもない。

3 トイレが遠い。

4 風と雨がひどくなってきた。

5 今日はお風呂に入りたい。

屋根に折れた小枝が落ちてきた。ついに決断。ビジネスホテルに避難。



潮のしぶきで塩分たっぷりかぶったインディ君を水洗い。



ホテルのコインランドリーで洗濯。





食事はホテル内のjoyfull。ゆっくり休めました。こんな日も必要か。

ウロウロヨロヨロ旅-九州編第37日 種子島ウロウロ

2015年11月26日 08時06分29秒 | 旅行記
11月25日(水)、長谷公園で起床。朝食。



トンミー市場で安納芋を購入。



観光案内を参考に、古市家住宅。

「弘化3年(1846年)に建てられたとされる古市家住宅は、種子島に現存する最古の類に属する住宅で島を代表する建築物です。屋敷の環境も良く、「住宅とともに歴史的風致を形成しており貴重である」として、平成6年に国の重要文化財に指定されました。」(引用)









芋をいただきました。



大ソテツ。近くの小さな神社にありました。









すぐそばに。「律宗を信教していた坂井村の領主、日高左京之進が、法華教を広める日良上人めがけて放った矢が、上人には当たらず、全てこの石に当たるばかりであったと伝えられています。」(引用)



種子島の南端には行ってきましたので北端に。喜志鹿埼灯台。誰もいません。





登れませんが休憩スペースがあり,大隅半島が見えます。今日はうっすらと見える程度でした。





砲台跡。



北端の海岸。



西之表の高台に夕暉が丘というところがある情報を得て、約1時間探しました。

ようやく案内板を見つけましたが、右に250mのところに入り口がある?ありません。ここが入り口で奥250mのところにあるーその通りでした。



戦艦「大和」の沈没海域の方向を示す場所でした。







平和も祈念します。



お許しをいただいてレストラン兼お土産売り場の駐車場で停泊。なぜ?wifiが使えるからです。

久しぶりにyoutubeを見ることができました。「音楽祭り」フルバージョンをじっくり見ることができました。












ウロウロヨロヨロ旅-九州編第36日 H2A29号機打ち上げ

2015年11月25日 12時24分10秒 | 旅行記
11月24日(火)種子島の南種子町長谷公園で起床。



天気はまずまず。



イベントが行われる会場では準備が進行。





最前列組はすでに着席。



F老人は別の場所、立ち入り禁止3㎞のすぐ外側にあるお宿「恵美の湯」さんの屋上で。絶好の場所です。



衛星を所有する会社の人たちはピクニック気分。



射点のH2A。



青空は広がり



打ち上げを見に通って5年というご婦人にいろいろお話を伺いながら待つこと約3時間、途中、船舶が進入したため約30分延びましたが、

午後3時50分、















点になって行きました。

残った煙。水蒸気?



射点。



圧倒的な美しさと身を包む感動。しばらく浸っておりました。

なぜかその後の写真がありません。長谷公園に引き返し、午後8時半ごろ、衛星分離に成功したとのニュースを聞き、安心して眠りました。




ウロウロヨロヨロ旅-九州編第35日 南種子町観光・宇宙センターでH2Aの移動を見る

2015年11月25日 11時01分28秒 | 旅行記
11月23日(月)勤労感謝の日、宇宙ヶ丘公園で起床。打ち上げ前日ですが、ほかに誰もいません。

種子島南端、門倉岬を目指します。南端の砂浜。



着きました。



いろいろな碑が立っています。



鉄砲伝来紀功碑。漂着したポルトガル人が鉄砲を伝えたのは文久12年(1543年)、織田信長が3000丁の鉄砲を準備し、武田の騎馬隊を殲滅した長篠の戦いは1575年、32年後、関ケ原の戦いは57年後のことです。





三七八戦役慰霊碑。明治37、38年に行われた日露戦争は三七八戦役と呼ばれていました。いま分かる人はほとんどいないでしょう。



ポルトガル海軍が建てた碑。





この海岸に漂着しました。ここから日本の歴史が変わることになったと思うと感慨ひとしおです。いずれ、ヨーロッパ文化は入ってきたと思いますが。



明治27年4月、上海から香港に向かっていたイギリスの貿易帆船ドラメルタン号は暴風で種子島南端の砂浜前之浜に漂着しました。

「異様な風貌の異国人に驚いたが才川周ヱ門宅ほか二軒の民家に乗組員を収容し手厚く介抱した。同年五月十八日イギリス東洋艦隊から六隻の軍艦が到着船の修復を終えて八月十六日長崎へ廻航されたがこの間の温情に感激した乗組員は別れを惜んで時計花びん額縁など数々の品物を贈り帰国後は滞在中の謝礼を送金している。下中にしかいない「インギー鶏」はこの船で飼われていた鳥の名残りである。(wiki引用)

謝礼に受け取った鶏は11羽だったそうですが、それがいまでは種子島名物。食べてみましたが美味しい鶏肉でした。







浜にはハイビスカス。



再び,宇宙センターに向かいました。途中にあった「宝満神社」。



名前は素晴らしい。



少し長い参道を通って参拝しておきました。





石垣は珊瑚石。



ツル細工の人が見ると宝の山?



干潮の時間が迫っていたので「千座の岩屋」へ。



前方の岩山が波に浸食されて





広い。



複雑。





見事なものでした。



安納は種子島北部にある地区。安納イモ、甘くておいしい。お店の人に安く買えるところを教えていただきました。



途中、恵美之江展望公園に寄り、明日の打ち上げの見学場所を確認。偶然、最善の場所で見ることができるようになりました。



再び、宇宙センターへ。種子島で一番きれいなトイレを使用することと見残した部分を見るために。



ISSのきぼう。







月探査衛星「かぐや」が写した月の表面などを見て、



お風呂へ。貴重品を入れるところがなく、車へ置きに行って入浴。ある意味怖いところでした。



打ち上げ場所から3㎞以内にあるため明日は閉鎖される広田遺跡ミュージアムへ。昭和30年代初め台風で崩れた砂浜の台地から人骨が発見されたことから発掘が行われました。弥生時代のの集団墓地遺跡です。



貝の飾りを付けた人骨が多く、158体の人骨と44000点以上の貝製品が出土しました。



背が低く、後頭部を絶壁にしているのが特徴です。



遺跡。







浜辺に面したところにひっそりと、「特務艦志自岐遭難記念碑」。旧海軍が初めて建造した給油艦でした。

「記念碑は、大正8年8月におきた遭難事故の悲惨さを伝え、沈没した志自岐乗組員の御霊を弔うため、平山の人々により大正10年9月1日に建立されました。大正8年8月4日、重油を満載してボルネオのタラカンを出港し、佐世保に向かっていた志自岐は、台湾沖から台風に巻き込まれました。8月15日、ようやくさしかかった種子島沖で暗礁に座礁し、沈没してしまいました。遭難の知らせをうけた平山の人々は、総出で昼夜を問わず懸命の捜索を続けましたが、その甲斐もなく、乗組員120人中、生存者はわずか7人、そして15人の遺体を収容しただけでした。こうした平山の人々の救助並びに遺体の収容等の労に対して、帝国軍人会から褒賞が贈られました。」(南種子町HP引用)



大正10年と読めました。



長い一日が終わったと長谷公園で停泊。チューハイを飲んで周りの人たちと話していると、組立棟から射点にH2Aを移動させるところを見ることができるという情報を得て、知り合いになったゼッキーさんがインディ君を運転して、宇宙センター内の高台へ。立派なカメラ持った人たちでいっぱいでした。



雷や雨で延びて11時ごろようやく移動が始まりました。まさかこれを見ることができるとは。

出てきました。



ゆっくり移動します。



射点に到着。液体水素などの注入が始まります。



盛り上がります。長い一日でした。