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ホテルに泊まったときの楽しみは朝の散歩です。いままで印象的だったのは、ニューヨークやオランダの古都マーストリヒトなどの朝です。
今回は西新橋のホテルに泊まったので朝一番で愛宕神社に参詣しました。
芝公園の近くで勤務していたときに昼休みの散歩でよく来ました。
151年前の3月24日、水戸藩士などが起こした「桜田門外の変」は雪の降る朝でしたが、前日、品川宿で最後の打ち合わせをし、集合場所にしたのが、愛宕神社でした。それを記念した碑がありました。
吉村昭の「桜田門外の変」は現場指揮官であった関鉄之介の日記などから襲撃、その後の2年にわたる逃亡を微細に記述した名著です。昔の人は、大変詳しく日記をつけていたのを知り、感心しました。いろいろな援助者を頼り逃亡するのですが、ある場所で危険を犯して3日間ぐらい逗留することがありましたがその理由は「痔」が悪化したためでした。百数十年を超えてリアリティに溢れていて、興奮しながら読みました。
午前中はフリーでしたので、現在の愛宕神社から桜田門まで歩いてみました。
最初に目に付いたのが、旧丸亀藩主京極家の上屋敷跡にある虎ノ門金毘羅宮です。四国丸亀藩にある本家讃岐金毘羅宮の分社です。京極家は、妖怪と呼ばれ、幕末の進歩人などを罪を作って陥れたといわれる元南町奉行鳥居耀蔵が有罪とされてから徳川幕府がなくなり明治維新まで、約20年にわたり預かっていました。鳥居は、「自分は将軍家によって配流されたのであるから上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府、丸亀藩を困らせそうです。その後、明治6年に東京で死去しています。虎ノ門金毘羅宮は立派な社殿であり、多くの出勤中の人が頭を下げていました。
桜田通りに戻り、交差点を直進すると、霞ヶ関の官庁街です。文部科学省の前を過ぎると、次の大きな建物が財務省です。昔、大蔵省と呼ばれていたころいやな仕事のひとつがここにくることでした。
われわれは正面から入ることは少なく、左側の通りに面した入り口にマイクロバスで運ばれ、中に入っていったものでした。
いやな思い出はさておき、財務省の次のブロックが外務省で、その反対側が農林水産省が入る合同庁舎で、明治から戦前にかけ、ここが海軍省でした。元海軍大尉の人が書き残した回想記の説明を作ったことがあり、そのとき日比谷公園の裏側であるここが海軍省だったことを知りました。ちなみに、陸軍省は憲政記念館のあたりだったそうです。
法務省の赤レンガ、震災の犠牲者を悼んで、国旗は半旗になっていました。ここは、江戸時代は米沢上杉家の上屋敷でした。
法務省の反対側が、警視庁、通りの正面が桜田門であり、関鉄之介ら襲撃グループは、愛宕神社終結の後、現在の官庁街を抜けて、桜門外に行ったのでしょう。
ここで引き返そうと思いましたが、時間があったので、きれいになった国会議事堂まで、お堀沿いに行きました。すぐそこの首相官邸もと思いましたが、気が乗らず引き返しました。
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閉店しているような街中の飲み屋さんの前に行くと「節電モードで営業中」の貼り紙、ひとつおきに点いている街灯、止まっているエスカレータ、暗いエレベータホール・・・4ヶ月ぶりの東京は震災の影響、特に原発の運転休止の影響で少し落ち込んでいるように見えました。
しかし、よく見ると、あれだけ揺れたと言うのに外壁の壊れたビルはないようですし、東京スカイツリーをはじめ、山手線、中央線などからは多くの建設中の工事現場が見えます。宿泊した新橋のホテルのすぐ近くでは、環状2号線に伴う再開発がこんな都心でと驚くほど大々的に行われていました。
いままで、方向性を持つことなく、四方八方に拡散していた力が、復興を合言葉に先鋭化はしていないものの方向性を持った力、ベクトルとなりつつあるように感じました。
報道で見る被災地の様子も、昔訪れた開発途上国では、今だけを対象とした漫然とした人心と荒廃した町並みが妙に調和した将来性のなさを感じたことがありましたが、そんな雰囲気はまったくなく、再興へのエネルギーを感じます。
「がんばれ日本」
読書ペースが極端に遅くなっています。通勤時間がないためです。少し、読み方を工夫しなければ。
豊臣秀吉を初めて知ったときはおそらく小学生だったでしょう。最初は痛快であり、すばらしい人だと思っていたのでしょうが、年を重ねるとともに、なんとひどいやつだと感じるようになりました。貪欲な欲望を持たなければ為政者にはなれないだろうし、為政者が貪欲な欲望を持てば悲劇になることは明白。利休の死もそのひとつのエピソードなのでしょう。
最終状況、利休の場合は切腹する日から時系列を遡り、その状況に収束してゆく過程を書いていく、なかなかなじめない小説でした。「たずねよ」とは、時の経過にに聞けという意味なのでしょうか。
組織の中には画期的な事績を残し、すばらしいと思われる人がいますが、その人がいなくなれば継続性がなくなる場合と組織と人に受け入れられ長く続けられる場合があると思います。前者が秀吉で後者が利休と単純に決めることはできないと思いますが、最終的に現代に生きているのは、殺された利休ともいえます。