道の駅「たからだの里さいた」で起床。静かでいい道の駅でした。
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今日、帰ることにして一路、しまなみ海道を目指して走りました。
道の駅「とよはま」は香川県と愛媛県の境、香川県側にあります。
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向かい側にうどん屋さん。地下道を通っていきます。
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うどんを食べました。ごぼうのかき揚げを汁に浸さず、パリパリと食べるのが好きです。
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イリコで有名な伊吹島。
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四国中央市三島の11号線から少し入ったところにある村松大師を訪れました。
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「神風特別攻撃隊敷島隊」の関中佐と母親サカエさんのお墓に参拝するためです。
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故関中佐については、「敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯」などで語られていますが、F老人は胸を痛めるのは母親サカエさんの戦後のことです。
「軍神の母」が、「戦争協力者」と批難を浴びる立場に移り変わり、「軍神」は「戦争犯罪人」とも批判され、「特攻」は「犬死」扱いとなった。旧軍解隊とともに軍人恩給は廃止となった。収入の中心が閉ざされたのである。母サカエは途方にくれた。窮状を見かねて、村上美代子が自分の恩師、氷見古町に住む久門昌代に相談すると「物置きに使っている部屋が空いているがそれでもよかったら・・・」と助け舟を出してくれた。
草餅の行商だけでは食べて行くのに精一杯で、仕事を求めて日傭いに出ることもあった。・・・
一日の仕事を終えて帰っても、物置き部屋ではただ一人眠るだけであった。つい一年前は、県知事はじめ地元西条の名士が多数訪れて席の温まる間もないほどの忙しさであったものが、いまや誰も訪ねるものがない。
時代の非情さは、こんな一件にも現れていた。借り部屋でなく、せめて小さくても自分が住める家があったら・・・という願いを請けて 村上美代子は夫と相談し、サカエに代わって氷見の切り山ふもとにある兵舎小屋の払い下げ嘆願書を西条市役所と愛媛県当局に差し出すことにした。当時、小屋は廃屋となっており、いずれは取りこわされる運命にある。一人息子が若くして国のために命を捧げ、遺された母がその日暮らしにも困窮しているのだから、 関中佐の戦死当時あれほど顕彰を競いあった県・市当局が何がしかの配慮を「軍神の母」にして呉れるのではないか、という期待があったからである。
だが、関サカエ名義で出された村上夫妻の願いも、結局無視された。待てど暮らせどついに何らの返事もなく、「嘆願書はホゴとして握り捨てられたものであろうと思えば、情けない敗戦の世情に止めどない涙が湧き出るのでありました」と、村上夫人は記している。
久門宅での一人暮らしは約三年間つづいた。この間、息子を喪った母サカエを二重に苦しめたのは、「軍神関中佐は生きている」というひそかな町の噂である。 親族の小野シナにもこんな苦衷を訴えて、涙にくれたことがある。「戦争に負けたんじゃから山の中に隠れていようとどんな卑怯なことをしようと、行男さえ生きて戻ってくれたら、私は嬉しいと思うとるのに・・・」
小野シナ自身も、地元の口さがない連中から「特攻隊で死ぬなんて馬鹿者(もん)じゃ」と皮肉っぽい声をかけられたことがある。「馬鹿かどうか、私にはわからんが・・・」とシナが、母サカエの貧しい暮らしぶりを思いやって声高に云い返した。
「国が戦争しとるんじゃから、行男さんも我慢して、 身体を壊しとるいうのに出て行きなさった。死ぬのが嬉しい、 云うて出て行く者が、どこの世界におるものか!」
「軍神の母」だからすでに遺族年金をたっぷり支給されているにちがいない、というもう一つの噂が立った。後述するように、旧軍人に対する恩給復活法案が国会に上程されたのは、昭和二十八年六月のことである。したがって母サカエも妻満里子も、結局その恩恵に浴することは一度もなかった。だが、事実としてこれらの噂話は人々の口から消えることはなく、生涯母サカエを苦しめるのである。
昭和二十三年八月、母サカエにようやく恵みの便りが来た。教員不足で村上夫人は、再び県下周桑郡小松町にある石鎚中学校で教鞭をとることになり、校長村上国一と石鎚村の村長伊藤一を説き、同じ敷地内にある石鎚小学校の小使いの職ではどうか、と話を持ち込んだのである。
「その知らせを聞いたときの関の小母さんの嬉しそうな表情は、いまでも忘れがたい」と、村上美代子は回想している。
軍人恩給案は八月に可決され、新任の渡辺校長の世話で、秋も深まる頃になってやっとサカエにも事務手続きの書類が届いた。墓詣で(伊予三島の秒除大師にある関家の墓)の帰り、小野シナ宅を訪れた母サカエは「来年二月から、私も年金が下りることになったんよ」と、嬉しげに語った。
米と玉子を土産に持たせて一緒にバス停まで歩き、元気なサカエの姿を見送った翌日昭和二十八年十一月九日の夕刻、小野シナ宅に電報が来た。「サカエキトクスグ コイ」・・・行年五十五歳。
敷島隊長関行男の母サカエは、何一つ花の咲くことのなかった薄幸の人生を閉じたのである。
・・・「あれだけ喜んだ年金ももらえずに・・・」小柄な身体に、苦労ばかりを背負い込んで生きたサカエの後半生が想い起こされ、シナは涙があふれてならなかった。
戒名は「清浄院釋妙栄大姉」その墓は伊予三島の秒除大師内で、いま関行男とともにある。(引用)秒除=村松?
戦後の混乱期とは言え、あまりにも悲しくなる話。同じ、11号線の山側にある楢本神社にある慰霊碑にはいきそびれました。
別子鉱山の跡地にある道の駅「マイントピア別子」へ行きましたが、東平(とうなる)地区は冬季閉山と聞き、またの機会にすることに。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/51/dc3ac27e1e30cc40df663ca25ca83074.jpg)
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最後の締めに、来島海峡SAの「アサリレモンラーメン」をいただきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/96/6e4bca2a0a0303df19b14185806a57d4.jpg)
今回の旅は終わります。来春は続きになるのか、別のところになるのかわかりません。ブログは随時、地図の追加など行っております。
しばらく、柑橘類の販売とガラス彫刻で日々を過ごします。
本日のルート。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/fa/d04bcfd3f4c7c7fbd801c815ae64b280.jpg)
本日の走行距離。
170km
今回の旅のルート。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/d4/d34eecbd8a3acad2599a71d307aa95d5.jpg)
今回の旅の走行距離。
923km
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今日、帰ることにして一路、しまなみ海道を目指して走りました。
道の駅「とよはま」は香川県と愛媛県の境、香川県側にあります。
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向かい側にうどん屋さん。地下道を通っていきます。
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うどんを食べました。ごぼうのかき揚げを汁に浸さず、パリパリと食べるのが好きです。
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イリコで有名な伊吹島。
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四国中央市三島の11号線から少し入ったところにある村松大師を訪れました。
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「神風特別攻撃隊敷島隊」の関中佐と母親サカエさんのお墓に参拝するためです。
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故関中佐については、「敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯」などで語られていますが、F老人は胸を痛めるのは母親サカエさんの戦後のことです。
「軍神の母」が、「戦争協力者」と批難を浴びる立場に移り変わり、「軍神」は「戦争犯罪人」とも批判され、「特攻」は「犬死」扱いとなった。旧軍解隊とともに軍人恩給は廃止となった。収入の中心が閉ざされたのである。母サカエは途方にくれた。窮状を見かねて、村上美代子が自分の恩師、氷見古町に住む久門昌代に相談すると「物置きに使っている部屋が空いているがそれでもよかったら・・・」と助け舟を出してくれた。
草餅の行商だけでは食べて行くのに精一杯で、仕事を求めて日傭いに出ることもあった。・・・
一日の仕事を終えて帰っても、物置き部屋ではただ一人眠るだけであった。つい一年前は、県知事はじめ地元西条の名士が多数訪れて席の温まる間もないほどの忙しさであったものが、いまや誰も訪ねるものがない。
時代の非情さは、こんな一件にも現れていた。借り部屋でなく、せめて小さくても自分が住める家があったら・・・という願いを請けて 村上美代子は夫と相談し、サカエに代わって氷見の切り山ふもとにある兵舎小屋の払い下げ嘆願書を西条市役所と愛媛県当局に差し出すことにした。当時、小屋は廃屋となっており、いずれは取りこわされる運命にある。一人息子が若くして国のために命を捧げ、遺された母がその日暮らしにも困窮しているのだから、 関中佐の戦死当時あれほど顕彰を競いあった県・市当局が何がしかの配慮を「軍神の母」にして呉れるのではないか、という期待があったからである。
だが、関サカエ名義で出された村上夫妻の願いも、結局無視された。待てど暮らせどついに何らの返事もなく、「嘆願書はホゴとして握り捨てられたものであろうと思えば、情けない敗戦の世情に止めどない涙が湧き出るのでありました」と、村上夫人は記している。
久門宅での一人暮らしは約三年間つづいた。この間、息子を喪った母サカエを二重に苦しめたのは、「軍神関中佐は生きている」というひそかな町の噂である。 親族の小野シナにもこんな苦衷を訴えて、涙にくれたことがある。「戦争に負けたんじゃから山の中に隠れていようとどんな卑怯なことをしようと、行男さえ生きて戻ってくれたら、私は嬉しいと思うとるのに・・・」
小野シナ自身も、地元の口さがない連中から「特攻隊で死ぬなんて馬鹿者(もん)じゃ」と皮肉っぽい声をかけられたことがある。「馬鹿かどうか、私にはわからんが・・・」とシナが、母サカエの貧しい暮らしぶりを思いやって声高に云い返した。
「国が戦争しとるんじゃから、行男さんも我慢して、 身体を壊しとるいうのに出て行きなさった。死ぬのが嬉しい、 云うて出て行く者が、どこの世界におるものか!」
「軍神の母」だからすでに遺族年金をたっぷり支給されているにちがいない、というもう一つの噂が立った。後述するように、旧軍人に対する恩給復活法案が国会に上程されたのは、昭和二十八年六月のことである。したがって母サカエも妻満里子も、結局その恩恵に浴することは一度もなかった。だが、事実としてこれらの噂話は人々の口から消えることはなく、生涯母サカエを苦しめるのである。
昭和二十三年八月、母サカエにようやく恵みの便りが来た。教員不足で村上夫人は、再び県下周桑郡小松町にある石鎚中学校で教鞭をとることになり、校長村上国一と石鎚村の村長伊藤一を説き、同じ敷地内にある石鎚小学校の小使いの職ではどうか、と話を持ち込んだのである。
「その知らせを聞いたときの関の小母さんの嬉しそうな表情は、いまでも忘れがたい」と、村上美代子は回想している。
軍人恩給案は八月に可決され、新任の渡辺校長の世話で、秋も深まる頃になってやっとサカエにも事務手続きの書類が届いた。墓詣で(伊予三島の秒除大師にある関家の墓)の帰り、小野シナ宅を訪れた母サカエは「来年二月から、私も年金が下りることになったんよ」と、嬉しげに語った。
米と玉子を土産に持たせて一緒にバス停まで歩き、元気なサカエの姿を見送った翌日昭和二十八年十一月九日の夕刻、小野シナ宅に電報が来た。「サカエキトクスグ コイ」・・・行年五十五歳。
敷島隊長関行男の母サカエは、何一つ花の咲くことのなかった薄幸の人生を閉じたのである。
・・・「あれだけ喜んだ年金ももらえずに・・・」小柄な身体に、苦労ばかりを背負い込んで生きたサカエの後半生が想い起こされ、シナは涙があふれてならなかった。
戒名は「清浄院釋妙栄大姉」その墓は伊予三島の秒除大師内で、いま関行男とともにある。(引用)秒除=村松?
戦後の混乱期とは言え、あまりにも悲しくなる話。同じ、11号線の山側にある楢本神社にある慰霊碑にはいきそびれました。
別子鉱山の跡地にある道の駅「マイントピア別子」へ行きましたが、東平(とうなる)地区は冬季閉山と聞き、またの機会にすることに。
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最後の締めに、来島海峡SAの「アサリレモンラーメン」をいただきました。
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今回の旅は終わります。来春は続きになるのか、別のところになるのかわかりません。ブログは随時、地図の追加など行っております。
しばらく、柑橘類の販売とガラス彫刻で日々を過ごします。
本日のルート。
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本日の走行距離。
170km
今回の旅のルート。
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今回の旅の走行距離。
923km