F老人の気ままな島暮らし日記

尾道市生口島で気ままな島暮らしの日々。

広島城祉

2016年10月28日 18時56分31秒 | 旅行記

毛利元就は、一領主から中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。後を継いだ孫の輝元は、聚楽第・大阪城を見物して、城下町と一体化して政治・経済の中心地となる城郭の必要性を痛感し、太田川河口の三角州に城地を定め、築城を決意しました。

天正17年(1589年)築城を開始し、天正19年(1861年)入城しました。

関ケ原の戦い後、防長に減封された輝元に変わり、福島正則が入城し、拡充しました。しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備をとがめられた正則は元和5年(1619年)に芸備2か国を没収され、代わって、和歌山から浅野長晟が入城しました。以後、明治に至るまで、250年間浅野氏が統治しました。

明治以降は、城内に歩兵第11連隊が設置され、日清戦争時には大本営が設けられました。昭和6年には、国宝に指定されました。そして、昭和20年原爆ですべてが焼失しました。

二の丸表御門から登城。





城の平面図。



表御門の歴史。



復元されているのは表御門から太鼓櫓に至る一連の建物。模型。



昔の写真。



現在。



内部。



大本営址。意外と小さいのですが、もっと建物はあったのでしょうね。







いよいよ、天守閣。1958年(昭和33年)市制70周年を迎えるにあたり広島復興大博覧会開催が決まり、広島平和記念資料館開館と共に天守が再建されました。



内部は一部を除き、撮影禁止です。



最上階。高楼とそこからの眺め。





降りてきてもう一度振り返り、広島城を後にしました。



100名城スタンプをゲット。





吉田郡山城祉

2016年10月25日 20時27分37秒 | 旅行記
戦国時代、毛利元就の居城であった吉田郡山城。

1571年、元就亡き後、1591年跡を継いだ毛利輝元は広島城を築城、入城します。

関ヶ原合戦後、毛利氏は防長2か国に減封。福島正則が安芸に入部します。1637年島原の乱の後、全国の古城が破却され、郡山城も廃城となり、石垣も破却されたようです。

安芸太田市歴史民俗博物館。毛利関連の資料が豊富です。







博物館の駐車場に車を置いて、城に登ります。本丸から毛利元就墓所を経て、一周する形です。2時間か。







遠望した郡山城祉。



毛利元就の里の幟。



「三矢の訓跡碑」。(御里屋敷伝承地)



清神社。(すがじんじゃ)、戦国時代は郡山の鎮守社として毛利氏の祈願所となった。境内に杉の巨木。







興禅寺跡。



山道を登って行きます。



安芸高田市吉田町の町並み。



本丸まで200m。



御蔵屋敷跡。





石垣が崩されているのがよく分かります。







木の根っこを踏みしめて登って行くと、二の丸跡。





すぐ上が2段になった「本丸跡」。









本丸跡から下を見ると



三の丸跡。







釣井の壇。





見上げると石垣の一部が残っています。



姫の丸跡。







ここから元就のお墓に向かって降りて行きます。





「簫岳鼎虎禅師墓」(しょうがくていこぜんしぼ)。本当は口編があります。







毛利元就墓所。



階段を登って行くと左側に「百万一心」の碑。郡山城の改修に際して元就が人柱の代わりに「百万一心」を彫った石を埋めると工事がうまく行ったという伝説。昭和6年に元就墓所に境内に建立されました。







反対側に元就のお墓。





一段低いところに、一族のお墓。





祀られているのは



立派なお墓でした。苔が印象的でした。

歩いて数分のところに元就の長男、隆元のお墓があります。











お城見学用の駐車場の隣に、「元就火葬場伝承地」があります。







日本百名城に郡山城が選ばれた記念碑。



2時間15分で標高390m、比高190mのお城を一周してきました。

100名城スタンプをゲット。



歴史民俗博物館の前に司馬遼太郎の碑がありました。司馬さんも城址に登ったのですね。

































吹屋伝統的建造物群保存地区

2016年10月14日 09時57分22秒 | 旅行記
吹屋伝統的建造物群保存地区にやってきました。

ここ吹屋地区は、もともと銅鉱山でありましたが、銅鉱とともに硫化鉄鉱石を酸化・還元させて人造的に製造したベンガラ(酸化第二鉄)における日本唯一の巨大産地として繁栄を極めました。

主に美術工芸用の磁器の絵付け・漆器、神社仏閣のベンガラ外壁塗装に多用されました。

ベンガラはインドのベンガル地方のものを輸入していたことから、ベンガラと呼ばれています。

ベンガラを作る工程は

1.鉄鉱石を砕く。.2.硫黄分を除く。3.不純物を沈殿させ、「緑礬」(ろくは)という結晶を作る。4.朴の葉に緑礬を盛る。5.松の薪で2日間、700度で焼き続ける。6.水洗いして石臼で粉にする。7.これを3度繰り返す。8.粉の中の酸を水に溶け出させる。9.弁柄の成分が沈殿。10.上澄みを捨て、水を入れる。11.これを10回から100回繰り返す。12.板に塗りのばし天日干し。

気の遠くなるような工程を経て作られていたんですね。






旧片山家住宅を見学しました。ベンガラの製造・販売を200余年にわたって手がけてきました。





工場を兼ねていました。











郵便局。



有名な小学校は解体修理中でした。







ベンガラ染もあるんですね。



古い独特の町でした。



今回の旅はひとまず、これで終わりです。暇を見つけて旅を続ける予定です。







満奇洞

2016年10月13日 10時37分19秒 | 旅行記
旅行の最終日、道の駅「醍醐の里」で目覚めた後、満奇洞に向かいました。「井倉洞」は知っていましたが、満奇洞は知りませんでした。

場所は、



です。こんな山奥の集落にあります。



説明。与謝野鉄幹、与謝野晶子夫妻が命名したのですね。



入り口に向かって歩いていきます。





1000円払って狭い入り口から



おお、







LED照明に照らされた洞内。



奇岩が続きます。





恋人の泉。





与謝野鉄幹、与謝野晶子の歌碑。








義民の丘

2016年10月12日 12時40分07秒 | 旅行記
徳川吉宗のころ、美作の国で「山中(さんちゅう)一揆」がありました。

1726~27年(享保11~12)に美作国真島、大庭両郡(岡山県真庭郡)の山中一帯に起きた百姓一揆。1726年11月美作津山藩主松平浅五郎が夭折したため、10万石が5万石に減知された。山中は幕領に編入される公算から、納入した同年年貢の取り返しなどを求め、また新参役人の久保新平の藩政壟断への不満も絡み、領内動揺のおり、一部大庄屋が郷蔵から米持出しをしたので、激高した山中農民が牧村徳右衛門、見尾村弥次郎、日名田半六らを頭取に蜂起、久世の大庄屋宅などを打毀した(12月初~月末)。いったん収拾したが、翌27年正月早々に再燃、徳右衛門らの指導下に鉄砲、竹槍で武装して蜂起し、これも鉄砲、大筒を用意して鎮圧に赴いた藩庁軍と対峙、同月12日夜、土居村に集結していた主流勢が夜討ちされて一揆側はほぼ潰滅した。一揆勢は大量に切捨てられる一方、津山へ連行された頭取たちは3月、磔、獄門、死罪に処せられた。「引用」

F老人は今井絵美子氏の小説「美作の風」で知ったのですが、この地を訪れてみました。場所は、真庭市禾津、湯原クライミングセンターへ上がっていく道の脇です。

「義民の丘」。









この場所は、主犯格とされた「牧村徳右衛門」が捕らえられた場所であり、近くの河原で多くの人たちが斬首の刑が行われました。



藩主の夭折による減知が重なったとはいえ、悲劇的な事件でした。

このあと、白梅の湯でさっぱりして、道の駅「醍醐の里」で寝ました。