毛利元就は、一領主から中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。後を継いだ孫の輝元は、聚楽第・大阪城を見物して、城下町と一体化して政治・経済の中心地となる城郭の必要性を痛感し、太田川河口の三角州に城地を定め、築城を決意しました。
天正17年(1589年)築城を開始し、天正19年(1861年)入城しました。
関ケ原の戦い後、防長に減封された輝元に変わり、福島正則が入城し、拡充しました。しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備をとがめられた正則は元和5年(1619年)に芸備2か国を没収され、代わって、和歌山から浅野長晟が入城しました。以後、明治に至るまで、250年間浅野氏が統治しました。
明治以降は、城内に歩兵第11連隊が設置され、日清戦争時には大本営が設けられました。昭和6年には、国宝に指定されました。そして、昭和20年原爆ですべてが焼失しました。
二の丸表御門から登城。
城の平面図。
表御門の歴史。
復元されているのは表御門から太鼓櫓に至る一連の建物。模型。
昔の写真。
現在。
内部。
大本営址。意外と小さいのですが、もっと建物はあったのでしょうね。
いよいよ、天守閣。1958年(昭和33年)市制70周年を迎えるにあたり広島復興大博覧会開催が決まり、広島平和記念資料館開館と共に天守が再建されました。
内部は一部を除き、撮影禁止です。
最上階。高楼とそこからの眺め。
降りてきてもう一度振り返り、広島城を後にしました。
100名城スタンプをゲット。