F老人の気ままな島暮らし日記

尾道市生口島で気ままな島暮らしの日々。

柏島・ジョン万次郎・金剛福寺・足摺岬

2017年09月16日 09時03分21秒 | 旅行記

道の駅「大月」で起床。朝から騒がしい道の駅でした。お湯を沸かして朝食。





大堂山展望台というところに来ました。柏島が一望です。





養殖が盛んなようです。



観音岩展望台というところに行きましたが、どれが観音岩かわかりません。多分これだろうと思います。



降りてくると展望台へ行く道も分岐から反対側へ少し行くと。間違いなし。



橋を渡って柏島に行きました。以前、ここ出身の人と一緒に仕事をしました。信頼できる人でした。その人から聞いたのですが、太平洋戦争の空襲がたけなわだったころ、米軍部隊は何十機もの編隊を組んでこの島の真上を飛んで行ったそうです。この島が基準点になっていたのかもしれません。

今はダイビングの聖地となっています。



桟橋からダイビングする人たちが出発しています。



その他は普通の漁村です。海鮮丼を安く食べさせるので有名な店があるのですが、朝9時すぎです。



ジョン万次郎資料館に行きました。再訪です。



ジョン万次郎を語るとき、この人なしでは話が進みません。本土に連れて行って養子にし、学校教育を受けさせた、ホイットフィールド船長です。



これが万次郎たちを助けた捕鯨船ジョン・ハウランド号。



マサチューセッツ州の小さな港町ニューベッドフォードで教育を受けます。津本陽の小説「椿と花水木」は脚色が過ぎるようです。



カリフォルニア州の金鉱で稼ぎ、船を買って、帰国するあたりは冒険小説のようです。琉球の近くまで来て、船から自分のボートを降ろし、豊見城町の海岸につきます。その時、乗っていた「アドベンチャー号」です。



帰国してからの活躍はご存じのとおりですが、万次郎は日本語の読み書きがほとんどできなかったそうです。ましてや、武士の言葉は14歳で故国を離れた漁師の息子にはおそらくチンプンカンプンだったのだはないでしょうか。漢字を書くことから勉強したこと、万次郎の才能がわかります。一緒に帰国した他の人たちに比べれば一目瞭然です。

そして、それを記録していた人がいます。池道之助です。土佐清水市には「池家文書」として子孫の方が保存しているそうです。



ジョン万次郎について語ると尽きません。ジョン万次郎資料館から土佐清水市に移動し、以前、家族と食事をした「足摺黒潮市場」で昼食。名物のサバを食べました。







それから、ジョン万次郎の生家を訪れました。







近くには



古いものでは小さな神社の境内に、昭和4年に建てられた叙位を記念する碑がありました。徳川家達氏の揮毫です。あー、ジョン万次郎を満喫したなあという思いです。





第38番札所 金剛福寺に来ました。足摺岬の先っぽにあり、歩き遍路をする人はここにお参りするため何十キロも歩かねばならず大変です。境内は大きな岩と鍾乳石と思われる岩がありました。 







二重の塔、お隣に日露戦争と太平洋戦争の慰霊碑がありました。



仏さまがいっぱいです。初めて見ました。



お大師様を祀る大師堂。



もう一つ、ジョン万次郎。



天気はよくありませんが、足摺岬に行ってみました。南国らしい植生のアーチをくぐって、







灯台。





約600m、アップダウンの遊歩道を行くと、白山洞門。さすがに誰もいません。独り占めです。





この後、中村市まで移動し、2日ぶりの温泉。とぼけた名前です。



すぐ近くの道の駅で停泊。「ビオスおおがた」、高知の道の駅はがっかりさせられることが多かったのですが、ここは違います。施設は充実しているし、静かだし、5時を過ぎれば弁当は半額になるし、酒は売っているし、いうことはありません。





台風は直撃しそうだし、風圧面積の大きいインディ君は横転しかねないので帰ることにしました。

本日のコース。



本日の走行距離・・・134km

本日までの航跡。



本日までの累積走行距離・・・673km

 
























段々畑、石垣、紫電改

2017年09月14日 19時07分33秒 | 旅行記

道の駅「きさいや広場」で起床。



近くにあるMacで久しぶりに朝Mac。身支度を整え、遊子水荷浦(ゆすみずがうら)に。三浦半島がここにもありました。遠くからもわかります。



土日祝日しかやっていない茶屋。奥のほうで大学院生がcafeをやっていて、いろいろ話をすることができました。



ここから登ります。



これ本当に作ったの、という感じです。



水はこの溝を流れてくるそうです。



ひとつづつ積んだのでしょうね。



しばらく声も出ませんでした。



半農半漁。はまち、鯛の養殖で今は豊かなそうです。最初に作ったのは江戸時代ですが、今残っているのは大正、昭和のもの。





ところどころサツマイモを栽培していますが、昔、ネズミが大発生して、ジャガイモに転作したそうです。



昔は半島全部にあったそうですが、崩れたり、作付けをする人がいなくなったり、今ではここ、水荷浦集落だけになったそうです。40戸しかないそうですがよく残っています。感心したり、まねはできないね、わずかなみかん畑をジャングルにしたしね。



南下して道の駅「みしょうMIC」で休憩。何か食べるものはないかと・・道の向かい側に立派なお店がありました。おまけに日替わり定食650円。



立派な個室で、



日替わり定食650円をいただく。これは650円では食べれないでしょう。



雨が止んだので、外泊へ。約12㎞。走りやすい道でした。



全体を映せないので絵葉書の複製。



細い道を歩いていくと







遠見の窓。





食堂とみやげ。







家を取り払うと分かりやすい。



よく見ると家の建ってないところが多い。



よくもこれだけ積んだものだ。「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」、「美しい日本の歴史的風土100選」、「日本の美しいむら農林水産大臣賞」に選定されているらしい。

「幕末に外泊地区の東側に隣接する中泊地区の人口が増加し、地区の主導者が各家の二男以下に分家移住を提案した。これに応募した人々により移住がなされ、地名を「外泊」と名付けた。中泊に隣接する入り江の谷を埋めて水路を確保し屋敷地を造成した。全戸の入居が完了したのは明治12年(1879年)頃であった。屋敷地の造成や石垣の積み上げは全て入居者の手で行われた。」(引用)

外泊から引き返す途中に「紫電改展示館」がありました。



「1978年11月、愛媛県南宇和郡城辺町(現・南宇和郡愛南町)久良湾の海底で1機の紫電改が発見され、翌1979年7月に引き揚げられた。
1945年7月24日に約200機のアメリカ軍を迎え撃つため343空の約20機が発進、豊後水道上空で会敵し戦闘となった。その戦闘による未帰還機6機のうちの1機で、戦闘301隊の所属機体とされる。」(引用)大村から飛び立ったそうです。

この時、未帰還機に乗っていた6名のパイロットは特定されていますが、残念ながら機内から遺骨は見つかりませんでした。乗っていた可能性のある人たち。



ちばてつやの「紫電改のタカ」に出てくる源田実率いる松空343航空隊、「剣部隊」が呉空襲の任務に就いた後、大村へ進出していました。同隊が撃墜した敵機は150機、戦死・未帰還者は78名と言われています。

ゼロ戦に比べ、太い胴体、力強さを感じます。









燃料タンクを見るのは珍しい。燃料タンクを弾が貫くとタンクの内張のゴムが締り燃えるのを防いだそうですが、「ゼロ戦燃ゆ」ではそのゴムがうまく作動しなかったそうな。





足の引き込み穴。



引き上げるときの写真がありました。



新明和、元の川西航空機で復元が行われました。日本で見られるのはここだけ。スミソニアン博物館で見たことがありますが、そのときより、はるかに立派に見えます。

この後、高知県に入りましたが、道の駅のレベルが低くてうろうろした結果、明日の予定も考え、道の駅「大月」に停泊。

本日のコース。



本日の走行距離・・・138km

本日までの航跡。



本日までの累積走行距離・・・539km


















龍馬脱藩の日記念館・武佐衛門一揆記念館

2017年09月14日 07時35分50秒 | 旅行記
久しびりの晴れです。道の駅「ひじかわ」で目覚めました。

午前9時過ぎ、出発です。

四国に来ると山間部では道が狭いと覚悟はしていたのですが、よくのまあ、みんな我慢しているものだと・・・

大洲市川辺町というところに来ました。廃校になった小学校跡に宿泊施設が作られていました。





川を挟んで反対側にあるのが龍馬脱藩の日記念館です。





中には資料も少なく、ただ、脱藩の道が険しく、それだけ、脱藩という行為が想像以上に難しいことだったのだということを物語っているようです。

無料で、無人で自分で明かりをつけて見学します。









外に出ると、川を挟んだ反対側に銅像がありました。





この辺りでは、なぜか屋根付きの橋が多くあります。



道が狭いので、引き返したくなかったのですが、ほかに道はありません。引き返して、道の駅「きなはい屋しろかわ」で昼食。写真を撮り忘れたのですが、ベーコンが名物のようで、おいしいベーコンどんぶりをいただきました。





ようやく見つけた「武佐衛門一揆記念館」は、狭い道の先にありました。とても車で行こうと思えないところに。





1795年、寛政5年、宇和島藩の支藩、
吉田藩であった出来事です。

「吉田藩三万石が強行した泉貨紙の専売制度の取り下げを求めて、寛政五年二月、全村八六ヶ村が一斉に立ち上がり、本家にあたる宇和島領へ訴え出ました。駆けつけた吉田藩家老安藤儀太夫は、藩政の非をわびて、百姓の面前で切腹。宇和島藩は、願いの筋は全て認め、さらに罪も問わずという裁決を出しました。上大野村の百姓武左衛門は、三年間、チョンガリ語りに身をやつし、全領をまわって、二四人の同志を得、この一揆を大成功に導いたと伝承されています。「これでは百姓の丸勝ちではないか」と吉田藩はくやしがります。一年後、藩の役人は、巧みにその名を聞き出し、逮捕するや直ちに首を打ったと伝えられています。」(引用)

近年、屏風の下張り中から多くの関連文書が発見され、再評価されています。











近くにある道の駅「日吉夢産地」は「柚鬼媛(ゆきひめ)」のモニュメントで有名です。







松野町のおさかな館に来ましたが、定休日でした。

JR松丸駅は駅舎の2階が温泉になっているのがユニークです。



ついでに入浴。きれいで、温泉もよかった。

宇和島のお気に入りの道の駅「きさいや広場」まで移動。停泊。

本日のコース。



本日の走行距離・・・95km

本日までの航跡。



本日までの累積走行距離・・・411km







卯之町の町並み

2017年09月13日 08時05分06秒 | 旅行記
夜半から激しい雨になりました。朝になるとしとしと雨に変わり、止みそうにありません。

とりあえず、道の駅の売店で五目寿司を買って腹ごしらえ。



急にPCがトラブルです。どうやってもインターネットにつながりません。延々と数時間あーでもないこーでもないとやってみましたがつながりません。

小降りになったので、宇和島藩の在郷町として栄えた卯之町散策に出掛けました。

卯之町のことは吉村昭の「ふぉん・しいほるとの娘」で知りました。シーボルトの娘、楠本イネの物語です。ある時期、イネを養育し、医師としての知識を与えたのが「二宮敬作」で、場所は卯之町でした。

まず、卯之町先哲記念館を訪れました。シーボルトの娘として波乱万丈の生涯を送ったイネとシーボルトの弟子でシーボルトと一緒に江戸に行き、シーボルト事件の当事者となった敬作を偲びました。









重要伝統的建造物群保存地区に指定されている町並みは雰囲気のいい空気を醸し出しています。





お寺につながる道を登っていくと、開明学校と宇和民具館があります。



昔の人が作った樽を見ていると職人の維持が感じられてほっとします。







実在の建物を含む町並み。
 


向かい側には「開明学校」。明治15年に建てられた小学校です。



二階建てです。



松本市の開智学校と姉妹関係のあります。



懐かしい教室。



敷地内には学校ができる前の寺小屋も再現されています。





学校を出て、すぐの小道に小さく二宮敬作墓の案内がありました。敬作は長崎で亡くなり、イネが長崎のお寺に手厚く葬ってありますが、遺髪墓が卯之町にあります。





二宮敬作旧宅。





蘭学者、高野長英は、蛮社の獄に連座して逃亡中、宇和島藩主、伊達宗城に庇護されて、砲台を築くなどしていましたが、卯之町では、二宮敬作の家に隠れていました。

「高野 長英(たかの ちょうえい、文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))は、江戸時代後期の医者・蘭学者。

天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。獄中記に『わすれがたみ』がある。

弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。脱獄の際、三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処す[1]との警告を牢の役人から受けたが、長英はこれを無視し、再び牢に戻って来ることはなかった。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも(江戸では人相書きが出回っていたためと言われている)硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続け、大間木村(現:さいたま市緑区)の高野隆仙のもとに匿われた。その際の高野家離座敷は文化財として公開されている。その後一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも春山が急死。その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したものとされる。しかし、この生活も長く続かず、しばらくして江戸に戻り、「沢三伯」の偽名を使って町医者を開業した。医者になれば人と対面する機会が多くなるため、その中の誰かに見破られることも十分に考えられた。そのため硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。
嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命したという。現場にいたある捕手役人の覚書による。しかし、奉行所に提出された報告書によれば、長英は短刀を振るって奮戦した後、喉を突いて自害したとある。」(wiki引用)

二宮敬作旧宅の裏側の細い路地に面して、高野長英が隠れ住んでいた建物が残されたいます。悲劇の蘭学者のことを思い、江戸時代の歴史に触れた気がしました。







雨は止みません。PCも直りません。

とりあえず、道の駅「ひじかわ」まで来ました。最後の手段です、復元をしみようと思います。





約1時間後、復元が終わり、つながるようになりました。雨も止みましたが時間的にどこにも出かけられません。停泊です。

本日のコース。



本日の走行距離・・・34km

本日までの航跡。



本日までの累積走行距離・・・316km








月曜日の壁

2017年09月12日 14時41分11秒 | 旅行記
道の駅「みなっと」で起床。八幡浜の港のすぐそば。





テレビの状況は根元がぽっきり、音が出ない・・・仕方がないので近くにedionがあったので、調達。



サイズを間違って買ってしまって、旅が終わったら何とかすることにしてとりあえず問題解決。

卯之町まで進出するも月曜日定休日の看板で観光はあきらめてお風呂でゆっくりすることにしました。ユートピア宇和。



夕食はセルフうどんの「大介」へ。





システムは分かりましたが、うーん、イマイチ。570円。



近くの道の駅「どんぶり館」へ。停泊。





テレビは受信できず、ポール・ニューマンの若いころの西部劇「左利きの拳銃」を見ました。ビリー・ザ・キッドの物語です。

本日のコース。



本日の走行距離・・・39km

本日までの航跡。



本日までの累積走行距離・・・282km