今から151年前、安政7年(1860年)旧暦1月13日(2月4日)、咸臨丸は品川から浦賀へ移動、そして、2月10日(以下、日付は太陽暦)アメリカ、サンフランシスコに向けて出港しました。37日後、3月27日にサンフランシスコに到着しましたが、荒天続きと劣悪な環境のため病気になる人が多く、勝海舟がほとんど船室から出てこなかったことは有名です。原因は本によって「船酔い」、「熱病」、「インフルエンザ」と3つが挙げられています。(本書では悪性の熱病となっています。)水で洗われる床に布団を敷いて寝ていた水夫に病人が多く、入港中に2名が亡くなり、5月9日の出港時にも海軍病院には回復しなかった7名が入院中であり、付き添い2名を含め9名がサンフランシスコに残りました。9名のうち1名は亡くなりますが、遣米使節を乗せてきたポーハタン号に雇われていて喧嘩をして怪我をした日本人1名が加わり、人数は変わらず9名になります。
本書は、その9名の水夫が日本に帰ってくるまでの物語です。木村摂津守とか勝海舟ではなく水夫が主人公なのです。置き去りにされたと悲観する病人たちのため船から米、味噌や醤油などを運んできてなんとか回復させようとする付き添いの懸命さが胸を打ちます。喧嘩早く怪我をしていたのは蕎麦屋の息子で、彼が病人のために打ったうどんがみんなをまとめ、萎えていた気持ちを奮い立たせ、帰国への意欲が高まります。咸臨丸の出港から3ヵ月後、全員が回復し、8月中旬、函館行きの帆船でサンフランシスコを出港、10月末ごろ(多分)帰国できます。仲間のために進んで残って付き添いをし、見知らぬ土地で奔走する二人の水夫には頭が下がります。咸臨丸子孫の会のHPを見ると没年や子孫の方も判明しているようです。
37年後、サンフランシスコでその事実を知り、墓を見つけ、史料を集め、「幕末軍艦咸臨丸」という大書を出版する文倉平次郎の生涯も綴られています。サンフランシスコにいた文倉は偶然、水夫の墓を見つけ、それがきっかけとなって咸臨丸に関する膨大な史料を収集し、生涯をかけて出版に努力し、最後は咸臨丸測量方士官の継嗣で実業家の援助を得て実現します。そのとき、昭和13年でした。途中、関東大震災で資料を失いながらも資料収集を開始してから38年かけて1冊の本を完成させたのです。この情熱と執念には尊敬させられます。そして、昭和20年(1945年)文倉は世を去ります。明治元年(1868年)生まれですから77歳のようです。
水夫3人の墓は当初サンフランシスコの特権階級の墓所ローレルヒルというところにありましたが、19世紀末、サンフランシスコ市内の墓地は都市計画によりすべて移転されたそうで、現在は少し南にいったコルマという町の日本人墓地にあります。この辺りは日系人の多いところで1979年サンフランシスコの少し北にいたF老人が見ていた日本語テレビ(専用のチャンネルではなく週に何時間か日本語で放送されるのです。)ではこの近くの町サンマテオにある仏教寺院のCMが流れていました。その当時、水夫の墓のことはまったく知りませんでした。遊園地であるGreat Americaや風光明媚なモントレーやカーメルに行ったときすぐ近くを何回か通ったので知っていればお参りしたのにと残念に思います。
「幕末軍艦咸臨丸」は、その後、復刻版が出版され、平成5年には文庫版も出ています。amazonで調べてみると文庫版は手に入りそうです。単なる古本ではなく、コレクター用のようで高い値段がついています。
植松三十里さんも7年間アメリカにおられたそうです。忘れ去られることなく記録に残した人、心を打つ物語にした人のおかげで充実した時間が送れました。なお、文庫本に改訂される前の単行本「桑港にて」はなかなか手に入りません。手に入れば読んでみたいと思います。「桑港」とはサンフランシスコのことです。確か「桑港新聞」という日本語の新聞があったと記憶しています。
コルマの日本人墓地にある水夫3人の墓です。