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キュビストトウキョウ




先月、日本一時帰国中の最終日には、上野の国立西洋美術館を訪れた。

明日はもう「西洋」に戻るのに、日本の最終日になぜ西洋美術を...と思いもしたのだが、行きたかった国立新美術館の『サンローラン展』が終了していたのだ。


コルビジェの美しき国立西洋美術館ではキュビズム展をやっているとのことだった。

ああ、関西人のわたしの東京の見方って、ものすごくキュビズム的なのではないか!? ...と思った。


キュビズム見学の前に。
ロダンの地獄の門が開く...


どういうことかというと、キュビズム作品を見るといつも関連づけて思いだしてしまうのはフッサールの現象学のことだ。

ピカソも、ブラックも、その先駆者のセザンヌも、時代的に現象学のことは知っていたに違いない。


フッサールは、人間はそれぞれの主観的な枠組みや先入観を持っているため、対象を経験し理解しようとしても対象の一面、断片を切り取ることしかできず、対象全体そのものではない、という。
その割には、まるで知ったように全体を了解してしまうのは、人間は個々の主観性だけを用いるのではなく、特定の文脈や社会的背景の中で共有される「共同主観性」を通じて、つまりさまざまな断片を寄せ集めて、対象を構築するからである。

例えば、上の写真のロダンの『地獄の門』を正面からだけ見て門である、とわたしたちに分かるのはなぜか。
それは自分の主観だけを用いず、特定の文脈や社会の常識みたいなもの、他さまざまな情報の断片を寄せ集めて、「門」を構築するからだ。

なら、いろいろな角度から眺めた対象を、全部画面に載せてしまえ、というのがキュビズム...とははしょりすぎか。




わたしも慣れない東京について、同じようなことをしようとしていると思うの...

わたしの東京に対する経験や理解は断片とその集まりにしかすぎず、常に立体感を持たせようとしているのだが、どうも東京は...

立方体(キューブ)の集まりみたいなもの...


丁寧に説明するなら、キュビズムはを異なる角度から見た対象を同時に2次元に落とし込んで描くことで、対象の本質や構造の多様性を表現しようとする。

現象学は主観的な経験の多様性に焦点を当て、直接の経験を通じて対象の意味を理解しようとする。
また、「エポケー」を用いて先入観から離れ、客観的で中立な観察を試み、主観と客観の統合を通じて経験の本質や構造を明らかにしようとする。


というわけで、東京を最後に英国へ帰ってきた。
(今日で日本の話は終わりかな!)
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