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Brugge Style
花の下より鼻の下
わたしは重装備が必要なスポーツが苦手だ。
スキーやダイビング...
スポーツは嫌いではない(たぶん嫌いだと認めるのが悔しいのだと思う)。
決して上手いとは言わないが、ラケット一本で一秒後に始められるスカッシュやテニス、パートナーさえいればできる社交ダンス(ほとんど忘れたけど。でもそれ以前にスポーツなのか?)ならば喜んで参戦する。
一方、スキーやダイビングは夫が好む。彼はわたしの事情をよく知っているにもかかわらず、バカンスのたびにスキーやダイビングを一緒に楽しむようプレッシャーをかけてくる。
わたしはスパと読書と飲酒と美食と昼寝と買い物で十分幸福だと言うておるのに。
ワタクシがいつ、買い物を一緒に楽しむように強要したか。
わたしにはパートナーと共に趣味を楽しむ趣味はないのである。
そこでわたしは代打を育ててきたのだ。成長著しい娘である。夫とて娘と活動するほうが嬉しいに決まっている。わたしの肝煎りで、現在彼女はダイビング訓練の真っ最中だ。
娘に任せておけば、今後は夫からうるさくせがまれることはない...
ところがダイビングスクールに娘を連れて行くと、毎回、妙齢の男性がいっぺんに6、7人ほどやってきて、美しき海やダイビングの醍醐味について熱く語り、「あなたは興味がないのか?」「なぜ?」と畳み掛けてくるのだ。
哀れな中年女の生活にそれほど張り合いがないように見えるのだろうか。
放っておいてくれたまえ。
花より団子は美学ですよ。でもわたしはそれをみんなにも分かってもらおうとは思わないだけです...
...
ベルギー北部やオランダでは、かつてダイビング訓練は運河でしていたという話を聞き、「それがほんまやったらめっちゃネタやん」とほくそ笑んでいた。ところが最近はさすがにそんなことはしなくなったらしい。がっかりである。
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ソウルフード
わたしと娘が外食する場合、状況が許す限り和食が最優先になる。
しかし、いつも首尾よく和食にありつけるかというとそうでもない。
例えばよく行く首都ブラッセルの和食屋は、欧米式とかレストラン式とでも言えばいいのか、ランチタイムの営業の後閉店して、ディナータイムにまた開けるところがほとんど(いや全部?)なのである。
用事をいくつか済ましてさあ何か食べよう、ということになった時、すでにランチには遅く、ディナーには早すぎる、ということが大変多い。
先日、繁華街を車で走っているときに、「鉄板焼き」「海鮮」と染め抜かれた海の家風「のぼり」が立っているノンストップキッチンの食べ物屋が目に入った。日本人の目には近頃雨後春筍式に増えた「なんちゃって和食」に違いないのは明らかだが、いざという時のために覚えておこう、と思った。
さて、「いざ」という機会が巡って来たので、入ってみた。
寿司、天ぷら、和牛(<うそ~)ステーキ、ラーメン、カツ丼、餃子、すき焼きという何でもありのメニュー。
わがソウルフードよ。異国で我を慰めん。
「くいだおれ」にはついに行くことがなかったが、おそらくこういった料理がちぐはぐでも好きに食べられる楼閣であったのだろう。
中国人のウエイトレスさんが注文を取ってくれているときも、
「ちょっと、分かってる?わたし、日本人やねんから。当然やけど和食の味にはめっちゃうるさいから。ちゃんとおいしいもん持て来てくれな困るで。」
と、心の中で唱えつつ注文をした。こういう時、わたしは伸子(しんこ)のように反っくり返えったようになる。
娘、ラーメン。
わたくし、カツ丼(あまりの暑さに生ものは敬遠いたしました)。
ごはんが長米だった。ラーメンの方がご機嫌な選択だったようだ。
食べ物屋での出来事をこのように言うのもずいぶんアレだが、わたしから日本の花鳥風月、美味礼讃-Méditations de Gastronomie Transcendante-を子守唄のように聞かされて育った娘のアイデンティティは「日本人」だ。
父親は少々不公平だと思っているようである。
不公平?日本は...
以下自粛。
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色とりどりの世界
先日の記事、「レオナルド」に関して多くのメールを頂き、驚いている。
友人に聞いたところによると、わたしが書くようなブログ、文章が明晰でなく、分かりにくく、だらだら長く、繰り返しが多く、漢字も多く、写真は少なく、あったとしてもピンぼけで、ましてイラストもないようなブログは流行らない(笑)ということなのに(わたしも激しく同意する)...有り難いことです。
ほとんどの方が、
「人間は不完全なものしか生み出せないのに、なぜ創作を続けるのだろうか」と書いておられた。
わたしは、「全」を目指す人間の表現方法や技術が必ず「不完全」であり、その「不完全」さが一人一人異なっているという「全」からの「ズレ」に創造はある、と考える。
前回も断ったが、この場合の「不完全」にネガティブな意味はなく、単に「全」との対語である。
つまり、不完全なものしか生み出せないにもかかわらず、創造へと人間を駆り立てるモティベーションは何なのか、という問いの立て方をわたしはしない。
不完全なものしか生み出せないからこそ、モティベーション(一人一人に固有の創造性の起動と発露)があるのである。
「全」は、ある意味(ある宗教ではと言った方がいいのか)「無」と同義語である。「全」においてはもはや創造行為は行われない。
芸術家、アーティストの中には、「全」を実現することさえできれば、金輪際創造などできなくてもいいと考える人もいるだろうし(わたしはこういう人を何人か知っている。彼らは例外なくカルトに走る。)、創造自体が快楽、と感じる人もいるだろう。
「不完全」の外に決して出ることのできない人間としては、色とりどりの世界の方が愛おしいと思うのだが、どうだろう。
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シンガポール・スリング
Proenza Schoulerのドレス。
大変都会的なデザインで
ベルギーには似合いそうな場所がない。
ベルギーには似合いそうな場所がない...そんなことを言うのは、わたしのいつもの妄想のせいばかりではない。
デザイナーにはそれぞれ地方色というか、そういうものがあると思うのだ。
身も蓋もない例をあげると、シャネルがパリ的であるとか(シャネルがパリ風味を作り出す欲望装置なのか、パリがシャネルに風味づけをしているのか...たぶんその両方だろう)、アルマーニがミラノ的であるとか、そういうことだ。
これを着てビルの高層階にあるバアで夜景を見ながら、大好物のギムレットを飲みたい。
8月のシンガポールで。
(Proenza Schoulerはアメリカのデザイナー2人組でシンガポールは関係がない。けれど都会の高層ビルに合うドレスだと思うので、シンガポールで。)
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