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お妃様に「学ぶ」




単に1人の子の親であるというだけで、教育や学びについてここであれこれ語っているのには、われながら恥ずかしくなることがある。

荷物のすき間で潰れている衝撃吸収剤のような頭ではあるが、できるだけ心を込めて考えようとは思っている(「心を込めて頭で考える」という表現はまた面妖な)。
また、公平に考えようと努力はしているものの、わたしは絶望的にものを知らないし、考え方には常にバイヤスがかかりまくり、別の立場、別の場所、別の時間、別のバイヤスの元ではブッブー不正解!となるだろうことも承知している。

それでもわたしは考える。考えたら言ってみたくなる。なぜだろう。
案山子にも小さな脳みそがあり、ブリキのロボットにも小さなハートはあるからか?



まあそんなことは置いておいて。しつこいけど。しつこさがわたしの文章の特徴であるからして。


ある遠い国のお妃様となられた方が、ご成婚前に宮中祭祀をお勉強なさっている時、「これをすることにどういう意味があるのですか(意味はない)。」とおっしゃったそうだ。もうかれこれ15年くらい前のことである。
このお妃様のご発言は「帰国子女だけに合理的」とマスコミによって意味不明な持ち上げ方をされ、肯定的に報道されていた(はず)。


なるほど宮中祭祀は、起源が説明できないほど古い有職、故事、煩雑な所作や手順、見たこともないお道具や聞いたこともない用語など、古式ゆかしきルールで成り立っているのであろう。

庶民がとり行う祭祀/行事一般においてでさえ、普段は決して使わない言葉や作法などの知識が必要だ。そういう場では意味を問う前に、とりあえず世慣れていそうなおばちゃんの見よう見まねをして切り抜けねばならない(そして何十年後かのある日、自分がその「おばちゃん」になっていることに気づくのだ...)。
皇室においてはさらに何十倍も厳格で複雑な要求があるのだろうことは簡単に想像できる。

それが「現代的」な感覚では「メンドウクサイだけで意味ないじゃない?」となるのだろうか。

元旦の早朝に朝服で東西南北を拝んだら、ホントに豊作と無病息災が叶うと思ってるの?みたいな。
因数分解を習って何の役に立つのですか?と聞く中学生並み。


しかし、自分が現在持てる知識で「意味が理解ができる」「得になりそう/ならなさそう」と判断を下せることしかやらない、と言う人は、自分自身とその知性にストッパー(呪縛か)をかけてしまい、学ぶことができない、と思うのである。

反対に、現在の自分の知識を持ってしては全然「意味は理解できない」けれども、とりあえずやってみる、覚えてみる、という人だけが、茫々たる知の海へと飛び込むことができると思うのである。そしていずれ「あの意味」が分かるところへたどり着くのだろう。たぶん死に際とかに(笑)。


そして残念なことにと言うか、お気の毒にと言うべきか、このお妃様のご病気は「意味が理解できることしかやりません」というお考えに原因があるのではないか、とわたしは下衆の勘ぐりをしているわけです。

つまり、この方はご自分をこの言葉でこの場所に釘付けにしてしまって、どうにも動くことができないのではないか、と。
「私自身が優れた意味があると判断したことをしたい」と思いつめるあまり、動けなくなっているのではないか、と。
終わりのない「自分探し」。
うむ、精神病の第一歩ですな。


自分が価値があるとすらも知らないことが闇の海のように広がっていると身体で感じることこそが学びの一歩だと思うのだが。


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