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幸福度指数




「英国のキャメロン首相は25日、国民の幸福度を高めることを目的とした調査を実施すると発表した。国民にとって大切なことは何か、どのような指標を用いれば国家の幸福度が測れるかなどを国民に問いかけるという。

キャメロン首相は、古くから国家の豊かさの指標として使われてきたGDP(国内総生産)では、健康や教育、仕事の満足度、環境、治安といった人々の幸福にかかわる側面を測ることはできないとし、幸福度を測る新たな指標が必要だと主張する。」(CNN.co.jp 11月29日の記事)


もう一ヶ月も前の記事だが、西洋先進国、すなわちマテリアルワールドが、人々の幸福度指数を計ることにしたそうだ。

隣国フランスも「貧困層が多いにも関わらず、なぜか幸福な人が多い国ブータン」を目指すつもりだとか。



まずわたしが突っ込みたいのは「幸福度が」「計測可能である」と考えることが、さすがミシュランを生み出した社会の考え方である、という点だ。
ある一定の計測器を使えば、パリのレストランから大阪のお好み焼きやまでが綺麗に数字で評価できるという、あの感覚。
三つ星レストランのフォアグラとお好み焼き屋の裏メニューの塩タン、エレガントな給仕氏の流れるようなサービスとおやじさんの絶妙な話術、どうやって較べるんでしょうね...

幸福度は人間一人一人の自己満足度でしかありえないのであって、「ハーバード大卒業後外務省に就職し、旧家のボンと結婚して一子をもうけ、東京のど真ん中の緑濃き大邸宅に住んでいるから幸福度は高い」とか「デブで貧乳だから幸福度は低い(だって英国の美容整形手術率は異常)」とか、そんなことからいったい何が分かるというのだろうか。

社会の中で他人と較べてわたしの幸福度数は80だからまあまあじゃない?とか、あなたは20だから低すぎるとか、偏差値的に評価はできないのではないか。

おそらくアンケートから見えてくるものは、自分を満足させるだけのお金がないとか、自分もセレブになりたいとか、そういうリアリティショー風に身も蓋もないことか、その対局に「家族との充実した時間」や「健康」など、西洋の指導者もアンケートをとるまでもなく百も承知しているようなことかだろう。
で、おそらく自分は幸福だと感じている人のライフスタイルや住環境を計って平均し、このモデル指数に近ければ幸福でそうでなければ...と決めつけるのだろう。それで何年までに何割かの国民がこのモデルに近づくように努力する、というキャンペーンを張るのだろう。


しかし、事実として、大富豪で健康で知的でも自己評価が極端に低く精神的に不安定な人もいるし、極貧で治安の悪いところに住んでいても自己評価が高く常に穏やかな人もいるのである。
なぜ、自己評価が低い人と高い人がいるのか。

おそらく人間は、自分が誰かのために存在している、そして誰かが自分のことを心から気にかけてくれている、と思わなければ生きて行けない。
先日、日本でコピーキャット的な通り魔事件があったが、わたしがその記事から読み取ったのは「かまってほしい」「自分はここに存在していると誰かに気づいてほしい」という赤ん坊の泣き声のような(自分勝手な)願いだった。



自戒を込めて大切なことを言おう。
他人と比較したり、他人から奪い取ったり、他人からしてもらったり受けたりすることに対して、自分が自分が自分が、という考え方をするのは徐々に捨てるべきなのである。
物やお金、地位名声、仕事の満足度などというものにはアノミー的に拡大し、際限がない。これで最高、あがり、という状態はないのだ。

自分の幸福、自分のお金、自分の環境、自分の自己実現度、自分の社会的評価、そういうことではなく、幸せになりたいと願う人は「自分」よりも他人にフォーカスすべきである。

クリスマスを前に、クリスマスの精神を考え直してみてはどうだろう(もちろんわたし自身を筆頭にですよ)。



ブータンの人が幸せなのは、西洋の人に比較して血中聖人パーセント度が濃かったり、悟り度が高いとかそういうことではないだろう。

おそらく(わたしはブータンに行ったことがないから分からないけど、おそらく)、インターネット、テレビ、雑誌などの情報や店頭に並ぶ商品の数などが少なく、その一方で各地域社会、各共同体に自分の居場所と役割がはっきりあることによる自尊感情に基づくのだろうと思う。


西洋社会がブータンになることはあり得ない。200年前にもどる?


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