もっこす亭の生きざま日誌

 「自然と人・人と人」の“いいかげん・いいあんばい”な生き方を求めています。

強い霜の朝に思い出すこと

2008-12-03 22:22:59 | Weblog
 今朝も冷えて、霜で真っ白になりました。
 といっても、数年前までは普通のことだったのですが、とても冷え込んだ感じがするのです。
 
 そういえば、思い出します。
 40年くらい前のこと。今と同じように不景気で就職難でした。
 卒業して1年は、不本意な仕事を点々としていました。

 田舎のこと、やりたい仕事につくには強いコネと金がいりました。
 大分の教員汚職と同じです。それが当たり前という意識でした。
 
 「五木の子守唄」にあるように
 ♪・・・あん人たーちゃ よかし(いい身分の人・金持ちの人)・・・♪で、諦めていました。
 同級生の中には、うまく狭い門をくぐり抜けて行くのもいましたが、“もっこす”を通しました。

 しかし、親のすねをかじる余裕はなかったので、行き当りばったりに仕事を探していました。
 その一つに、稲刈りがありました。
 あれは、11月の中旬か下旬。仕事がなくて帰りにくく、あてもなく自転車で国鉄三角線(今は“みしみみかん”で名が売れていますが)に沿って走っていくと、不知火海の近くで稲刈りをしていました。そこに飛び込んだのです。

 当時は、コンバインが入り始めたころでしたが、田植えや稲刈りの農繁期には集団で大きな農家を渡り歩く人たちがいました。
 農家の主人は、その場で集団の人たちの中に入れてくれました。

 稲刈りといっても、先輩の家で一二度手伝ったくらいでしたから、プロの稲刈り集団には足手惑いだったでしょう。
 その日から、その農家に泊り込み。
 早朝、稲は霜で真っ白でした。
 朝飯は田んぼでした。夕方手元が見えなくなるころまで刈っていました。
 みんなに遅れないように必死で刈っていたと思います。
 
 3・4日たつと手のひらのマメ(大きくて強いマメでした)が、稲の葉のザラザラでマメの元から擦り切れたしまったのでした。
 はがれたマメのあとは真っ赤で血が出ていました。朝一番につかむ稲の葉の痛かったこと!
 飛び上がるほどでした。でも、30分も刈ると感じなくなっていました。
 軍手などありませんでしたから、みなさんの手はすばらしい手だったのですねぇ。

 仕事が終わって、門を入ると熟れた柿の実がきれいでした。
 晩飯を食い終わると風呂。みなさんが上がって、最後に入る。
 五右衛門風呂の湯の表面は、真っ白!垢が浮いて水の隙間がないのだった。
 早朝から日暮れまで汗を流す重労働なのだからやむを得ない。

 垢をてでかき分けながら湯につかる。その湯がすり切れたマメの跡にしみること!
 ウッと息を止めて耐えていると、間もなく感じなくなってくるのでした。
 上がる時、また垢をかき分けて体につかないようにせねばなりませんでした。

 十日くらい過ぎた午後、オヤジが川崎市の教採の知らせを持ってきてくれた。
 ありがたかった。
 次の日、そこの稲刈りは終わった。
 
 稲刈り集団の人たちは、次の農家に移動して行きました。
 その時の労賃は、みなさんの半分もらえればいいと思っていましたが、女性の賃金と同じにしてもらって、旅立ちの支度金に当てることができました。

 強い霜の朝や苦しい時、なぜかこの時の稲刈りのことが詳しく思い出されるのです。
 
 昔は、熊本の平野部でも、今小生が住んでいる東北難部より冷えていたようです。